伝記
イドリース1世は、モロッコに成立したイドリース朝の始祖である。在位は789年から793年とされる。正統カリフ、アリーの子ハサンの末裔にあたり、預言者ムハンマドの家系につながるアリー家の一員であった。父方は、アッバース朝のカリフ、マンスールの獄中で762年に没したアブドゥッラー・カーミルの系統で、イドリースには、ムハンマド、イブラーヒーム、イーサー、スライマーン、ヤフヤーの5人の兄弟がいたという。
アリー家の人々は、アッバース朝の支配に反対する勢力の中心になっていた。762年から763年にかけては、イドリースの兄であるムハンマドとイブラーヒームが、メッカとバスラで蜂起したが、成功しなかった。786年には、カリフのハーディーに対して、イドリースの従兄弟とも甥ともされるフサイン・ブン・アリーが、メディナで蜂起した。これがメッカ近郊でのファフの戦いに至り、反乱軍は大敗した。イドリースもこの反乱軍に加わっていたとされる。生き残ったアリー家の人々は、アッバース朝の支配が及ばない遠い辺境をめざして、ヒジャーズを離れた。
イドリースはしばらくヒジャーズに身を隠したのち、兄弟のヤフヤーとともに紅海を渡り、アビシニア、続いてエジプトに逃れたという。エジプトでは、イドリースの忠実な解放奴隷で、ベルベル人の出身かともいわれるラーシドが、マグリブへの出発の手はずを整えた。二人は788年か789年にマグリブに着き、ヤフヤーはイエメンに向かった。当時のマグリブ西部では、イスラームの浸透は浅く、先住民の多くはベルベル人の信仰やユダヤ教、キリスト教を奉じていた。イドリースはタンジェで期待した支持を得られなかったため、メクネス近郊の古代都市ウォルビリス、すなわちワリーラに居を定めた。ここで、この地方で最大のベルベル人部族連合であるアウラバ族に迎えられ、789年に宗教的・政治的な指導者として認められた。預言者の血筋を引くことから、イマームの称号も与えられたとされる。さらに近隣のベルベル人諸部族からも承認を受け、イドリース朝が正式に成立した。
のちの伝承は、ベルベル人のバルガワタ族の征服など、イドリースの華々しい遠征を語る。しかし、確認できる貨幣の鋳造所はウォルビリスとトゥドガの二か所にとどまり、領域は限られていたと見られる。スース・アクサー、マッサ、トレムセンへの遠征も、後継者のものとされることが多い。それでも、ベルベル人部族の連帯を基盤に、ウアルガ川流域の支配を固め、タドラを押さえた。790年にはトレムセン地方へも進出したとされる。アンダルスやイフリーキヤから来たアラブ人を登用して宰相、裁判官、書記を置き、アトラス山脈南の銀山を利用して独自の貨幣も鋳造した。
こうして勢力を広げたイドリースは、793年、ハールーン・アッラシードが送った刺客に毒殺されたと伝えられる。没年は791年から793年のあいだともされ、ウォルビリスで没したという。跡はその子イドリース2世が継いだ。この王朝の成立は、一般にモロッコ最初の国家と見なされている。なお、イドリースの事績は正確に捉えにくい。主な情報源は、ザイド派に属するシーア派の史書と、のちのマリーン朝期にスンナ派マーリク派の立場で書かれた史書である。後者は、イドリース朝をスンナ派の支配者として描き直す傾向があり、疑わしい点が多いとされる。前者は、王朝の創始者と同じ政治・宗教の流れに属するが、伝わる材料がきわめて乏しい。そのため、貨幣学と考古学も使いながら出来事を見直す作業が続いている。
同じ年に亡くなった人物
- 大欽茂 (793年没)
同じ地域に関係する人物
- ムーレイ・シャリーフ (1659年没)
- アブドゥルラフマーン・ベン・ヒシャーム (1859年没)
- Mohamed Rouicha (2012年没)
- ムーレイ・イスマーイール (1727年没)