伝記
オノレ・ド・バルザックは、1799年にトゥールで生まれ、19世紀のフランスを代表する小説家となった人物である。名に付く「ド」は、貴族を気取った自称だったとされる。父はもとは南仏タルン地方の貧しい家の出身で、パリへ出て地位を上げ、国王顧問会議の書記となり、古い貴族の家名にならって姓を改めたという。のちにトゥールで軍の物資調達に携わり、要職にある実務家として知られた。母はパリで裕福な商家に育ち、夫より30歳あまり年下であった。生まれてすぐにトゥール近郊の乳母に預けられ、幼少期は母にあまり愛されなかった。その後は寄宿学校に入れられ、孤独な少年時代を過ごし、母が面会に訪れたのは6年間で2度だけだったと伝えられる。母の愛の乏しさと、のちの女性遍歴の多さは、しばしば結びつけて語られる。
母は神経質な人で、サン=マルタンやスヴェーデンボリの神秘思想、メスメルの動物磁気に傾倒した神秘主義者でもあった。その影響は「セラフィタ」のような怪奇・幻想的な作品に受け継がれた。彼自身は、自分を滅茶苦茶にしたのは母だと終始主張していたという。1814年に父の仕事の都合で一家はパリへ移り、彼はソルボンヌに聴講生として通い、法科大学の入学試験にも合格した。やがて父の退官で一家が郊外へ移ると、ひとりパリに残って創作を始めた。両親は公証人になることを望んだが、彼は拒んだ。1825年にはマレ街に印刷所を起こして破産も経験し、当初は屋根裏部屋で暮らした。
1829年以降、『ふくろう党』『結婚の生理学』『私生活情景』を発表し、1831年の『あら皮』で成功をつかんだ。その後も『ウジェニー・グランデ』『絶対の探求』『ゴリオ爺さん』『谷間のゆり』『幻滅』『従妹ベット』『従兄ポンス』など、多彩な作品を書き継いだ。社会に存在しうるあらゆる人物と場面を描き、フランスの社会史を形づくろうとして構想したのが、90篇ほどの長編・短編からなる『人間喜劇』である。この構想は、彼の死によって中絶した。作風は、社会全体を見渡す視点と人間の内面の精密な描写を対比させる点にあり、深刻な主題を扱いながら娯楽性にも富むとされる。ヴィクトル・ユーゴーやアレクサンドル・デュマ(大デュマ)とは親友の間柄で、パリの死刑執行人サンソンとも親しく交際したと言われる。
執筆はコーヒーを大量に飲み、主として夜間に長時間、推敲を何度も重ねながら行った。書き終えると、疲れをおしてすぐに社交界に顔を出した。大食いも伝説となっており、糖尿病が原因と思われるこの習慣が、晩年の失明や死因となった腹膜炎を引き起こしたと考えられている。事業の失敗や贅沢な暮らしのために莫大な借金を負い、自力では返しきれず、晩年に結婚したポーランド貴族の未亡人エヴェリーナ・ハンスカ伯爵夫人の財産が損失の補填にあてられた。女性との交際は華やかで、相手の多くは貴族階級の年上の女性だった。ハンスカ夫人とは1832年からの恋愛関係があり、正式に結婚したのは亡くなる直前の夫人だけである。
1850年8月18日、パリで世を去った。妹ロールは没後間もない1851年に、回想記『わが兄バルザック』を著している。イギリスの作家モームは、彼を「確実に天才とよぶにふさわしい人物」と評した。その広い作品群は、プルースト、ゾラ、ディケンズ、ドストエフスキー、フロベールらに影響を与えたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- ヨハン・ヤーコブ・ベルンハルディ (1850年没)
- ジュゼッペ・ジュスティ (1850年没)
- ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサック (1850年没)
- ユリイェーネ・ソフィー・ア・ダンマーク (1850年没)
- アダム・エーレンスレーヤー (1850年没)
同じ地域に関係する人物
- Achille Souchard (1976年没)
- アルベール・ド・ブロイ (1901年没)
- ジャン・ピカール (1682年没)
- マルゲリータ・ルイーザ・ディ・ボルボーネ=オルレアンス (1721年没)
- ヴワディスワフ・チャルトリスキ (1894年没)