伝記
ジョセフ・ルイ・ゲイ=リュサックは1778年12月6日、リモージュ近郊のサン=レオナール=ド=ノブラに生まれたフランスの化学者・物理学者である。父アントワーヌ・ゲは医師の子で、弁護士・検事として地元で判事も務め、近郊のリュサックの土地の大半を所有していたため、旧体制の慣行にならってその地名を姓に添えていた。父子が正式にゲイ=リュサックの姓を名乗るのは1803年ごろとされる。幼いころは司祭のもとでラテン語を学び、弟とともに地元で教育を受けた。1793年末、革命下の容疑者法によって父が投獄され、翌1794年のテルミドール9日まで留置される。同じ1794年、父は16歳の彼をパリへ送り、いくつかの寄宿学校で英語や絵、数学を学ばせた。
1797年にエコール・ポリテクニーク(国立理工科学校)に入学し、フールクロワやボークラン、シャプタル、ベルトレらに化学を学んだ。最終学年にはベルトレのもとで塩素による亜麻の処理に取り組んでいる。生活費の足しに数学の個人教授もしていたという。その後、国立土木学校に移り、ベルトレのアルクイユの私設研究室で助手として働いた。1802年に理工科学校のフールクロワの助手となり、1809年に化学の教授になった。ソルボンヌ大学では1808年から物理学を講じ、1832年にパリ植物園の化学教授の職に就くためにソルボンヌを去った。
研究は多岐にわたる。1802年、気体の体積が温度上昇に比例して膨張するという法則を発表した。ただしジャック・シャルルがより早く発見していたため、シャルルの法則と呼ばれることが多い。1804年にはジャン=バティスト・ビオと熱気球で6400メートルの高度に達し、高度ごとの大気を集めて温度と湿度の関係を調べた。1805年にはアレクサンダー・フォン・フンボルトと、大気の組成が高度で変わらないことや、水が体積比で水素2・酸素1からなることを明らかにした。1808年には気体反応の法則を発表し、ルイ・テナールとホウ素の単離に成功した。1810年にはテナールと、塩素酸カリウムとの反応で出る二酸化炭素と酸素の測定による定量分析法を開発した。1811年にはヨウ素を元素と認めて性質を詳しく述べ、「イオード」(フランス語でヨウ素を指す語)という名を提案した。1824年には新型のビュレットを作り、ピペットとビュレットという語を初めて用いた。1827年には硫酸合成の鉛室法を改良し、窒素酸化物を回収するゲイ=リュサック塔を考案した。アルコール度数をゲイ=リュサック度数と呼ぶ国も多い。
私生活では、服地店の店員が化学の教科書を勉強しているのを見て知り合ったジュヌヴィエーヴ・ロジョと結婚し、5人の子をもうけた。結婚の年は1809年とも1808年ともいわれる。長男ジュールはギーセンでリービッヒの助手となった。1831年に下院議員、1839年には上院議員に選ばれ、1821年にはスウェーデン王立科学アカデミーの外国人会員に選ばれた。1829年には造幣局の貨幣検定官となり、銀の湿式検定法の採用を政府に提案したが、この職は1848年に長男ジュールに譲っている。1850年5月9日にパリで没し、ペール・ラシェーズ墓地に葬られた。弟子にはリービッヒがいる。パリと生地には彼の名を冠した通りがあり、子孫の一部はブラジルやカナダにも住んでいる。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ワーズワース (1850年没)
- ザカリー・テイラー (1850年没)
- Vincent Pallotti (1850年没)
- ヤン・ヴァーツラフ・トマーシェク (1850年没)
- Manuel de la Pena y Pena (1850年没)
同じ地域に関係する人物
- アンドレ・シャンソン (1983年没)
- ヴィットーリオ・アメデーオ1世・ディ・サヴォイア=カリニャーノ (1741年没)
- パール・ラースロー (1879年没)
- フランソワーズ・ド・ブラガンス (1898年没)
- ロベール・エスノー=ペルトリ (1957年没)