伝記
フレデリック・バスティアは、1801年6月にフランス南部の港町バイヨンヌで生まれた経済学者である。誕生日は29日とも30日ともいわれる。父は実業家で、一家は祖父の代から貿易や商いに携わっていた。母は彼が7歳のとき、父は9歳のときに亡くなったとされ、両親ともにバイヨンヌで流行した結核で世を去ったという。孤児となった彼は、祖父と未婚のおばジュスティーヌに育てられ、バイヨンヌと祖父の領地セングレスを行き来して成長した。ベネディクト会系の寄宿学校で哲学のほか英語、スペイン語、イタリア語を学んだが、家業を継ぐために17歳で学校を離れた。
1818年、祖父の命でバイヨンヌにある叔父アンリ・モンクラールの貿易会社に事務員として入った。叔父は貿易論に通じた人物で、若い彼の導き手となった。しかし彼は日々の商いに関心が薄く、友人への手紙で哲学と政治への傾倒を打ち明けている。1820年の初めにはジャン=バティスト・セイの経済学の著作を読み、その後の数年はアダム・スミスやデステュット・ド・トラシーの著作にも学んだ。古典的自由主義者のセイから特に感化を受けたと伝えられる。学問は独学で、経済のほか歴史、政治、文学、宗教など幅広い分野に及んだ。1821年にはバイヨンヌのフリーメイソンの支部ラ・ゼレに入会し、同じ支部の仲間を通じて、同郷の銀行家ジャック・ラフィットを囲む若い自由主義者たちの集まりにも加わった。
1825年に祖父が亡くなると、彼はセングレスの土地を相続した。大学で学ぶ計画は家庭の事情で実現しなかったが、この財産のおかげで研究に打ち込むことができた。海の商いから退いて農場の暮らしに入り、農学にも力を注いだ。1827年にはシャルル・デュノワイエやベンジャミン・フランクリンの著作を読み始めたという。近くに住む弁護士フェリックス・クードロワは、1830年代を通じて最も信頼する相談相手となり、思想形成にも大きな影響を与えた。1830年の7月革命ののちは政治に関わるようになり、地元の有権者に向けた小冊子を配った。1831年にバイヨンヌの治安判事に任命され、翌年には県議会議員となった。
やがてイギリスの穀物法をめぐり、リチャード・コブデンの反穀物法同盟を支持した。1846年には自由貿易協会を創設し、フランス学士院の会員にも選ばれた。1848年の二月革命の後には、フランス立法議会の議員に選出された。著作には、1845年に始まる『経済弁妄』、1849年の『理財要論』、1850年の『経済調和論』などがあり、いずれも明治期の日本で翻訳された。ロウソク製造業者の請願書を題材にした文章も知られている。『見えるものと見えないもの』では、政府が社会貢献を自賛しながら、やらなかったことや見えない結末には触れないと指摘した。そうした政府の効能を説く議論を攻撃し、自由主義者を活気づけた。晩年の著作『法』では、法は私有財産のような権利を守るべきもので、他人の財産を奪うものであってはならないと論じたとされる。のちにジョゼフ・シュンペーターは彼を、最も才気ある経済ジャーナリストと評したとされる。
1850年12月24日、イタリアのローマで、結核により世を去った。
同じ年に亡くなった人物
- オリバー・カウドリ (1850年没)
- リチャード・メンター・ジョンソン (1850年没)
- フランソワ・シュルピス・ビューダン (1850年没)
- ジョン・カルフーン (1850年没)
- Valentin Canalizo (1850年没)
同じ地域に関係する人物
- エドワード・ドッドウェル (1832年没)
- ピウス1世 (ローマ教皇) (155年没)
- ベネディクトゥス1世 (ローマ教皇) (579年没)
- エウゲニウス4世 (ローマ教皇) (1447年没)
- アルフレド・オッタビアーニ (1979年没)