HISTORICAL PERSON · 1795年没

ルイ17世

ルイ16世とマリー・アントワネットの次男。兄の死で王太子となり、革命で家族とタンプル塔に幽閉され、解放されないまま病死した。

生涯
1795年没
死亡地
フランス共和国(パリ)
出生地
フランス共和国(ヴェルサイユ)
出典
世界地図
フランス共和国(パリ)

伝記

ルイ17世は、フランス国王ルイ16世と王妃マリー・アントワネットの次男である。1785年3月27日にヴェルサイユ宮殿で生まれ、1795年6月8日に10歳で病死した。洗礼名によりルイ=シャルルとも呼ばれる。父の処刑後、王党派からは名目上のフランス国王とみなされたが、幽閉されたまま解放されることはなく、実際に国を治めることはなかった。

生まれた日に洗礼を受け、ノルマンディー公に叙された。名は父と、母の最愛の妹であるナポリ・シチリア王妃マリア・カロリーナにちなむという。家族の中では、この王妃がシャルロットと呼ばれていた。保育係は初めポリニャック公爵夫人であったが、革命の勃発した1789年7月に、ルイ16世の勧めで国を去り、後任にトゥルゼル侯爵夫人がついた。ほかに乳母のランボー夫人がいて、誕生から1792年8月10日まで7年にわたり、王子の世話をした。ある作家は、母以上に真の母であったと書いている。1789年6月4日、兄ルイ=ジョゼフの夭逝により王太子となった。姉は、のちに従兄のアングレーム公爵の妃となるマリー=テレーズである。

1789年7月14日に革命が勃発し、10月5日のヴェルサイユ行進を経て、一家はパリのテュイルリー宮殿に移され、軟禁に近い状態に置かれた。1791年6月にヴァレンヌ事件を起こしたとき、ルイ=シャルルは少女に変装していたが、逃亡は失敗した。1792年の8月10日事件を経て、8月13日にタンプル塔に幽閉された。6歳であった。最初は小塔で母や姉、ルイ16世の妹エリザベートと過ごしたが、10月27日に大塔に移され、父と一緒になった。毎日数時間は母たちと会えた。一家は愛犬ココとともに過ごした。1793年1月21日に父が処刑されると、王党派はルイ=シャルルをルイ17世とし、その1週間後に叔父のプロヴァンス伯が自らを摂政と宣言した。ルイ17世を逃がす陰謀は多数計画されたが、成功しなかった。

1793年7月3日の午後9時、母から引き離され、公安委員会が任命した保護者である靴屋アントワーヌ・シモンとその妻のもとで過ごすことになった。王党派は、夫妻から虐待を受けたと主張した。ただし、ブリタニカ百科事典第11版は、これは証明されていないとし、王政復古期に塔の文書記録の大半が処分されたため、証明は実質的に不可能だとしている。確かなのは、食べ物が与えられたこと、また夫妻が過食を強いて下品な言葉を教え、保護者として不適切だったことだという。10月6日には、エベールらがマリー・アントワネットの罪をでっち上げ、それを証言する文書に署名させた。翌日に姉マリー=テレーズと会い、これが今生の別れとなった。夫妻は1794年1月19日に塔を去り、以後約半年は隔離に近い状態で、特定の保護者もなく、看守が毎日変わった。テルミドールの政変の後、バラスが訪ねると処遇は改善に向かったが、ルイ17世は10月末から一言も発さなくなった。

1795年5月に重病に陥った。診察した医師ドゥゾーは「出くわした子供は頭がおかしく、死にかけている。私には元に戻すことができない」と述べ、6月1日に急死した。数日後に別の医師が呼ばれたが、6月8日に病死した。検死では、膝や手首に腫瘍があり、内臓全体にも腫瘍がみつかり、死因は結核とされた。6月10日にサント・マルグリット墓地に埋葬された。検死をした医師ペルタンは、心臓をハンカチに包んで持ち出していた。のちに逃亡の噂や僭称者が現れたが、2004年に心臓はDNA鑑定でルイ17世のものと判定され、サン=ドニ大聖堂に埋葬された。

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