伝記
光仁天皇は、日本の第49代天皇である。709年に生まれ、諱を白壁といった。天智天皇の第7皇子・施基親王(志貴皇子)の第6皇子で、母は紀橡姫である。8歳のとき父が亡くなって後ろ盾を失ったためか、737年に従四位下に初めて叙されたのは29歳で、当時の皇族としては遅かった。
749年に聖武天皇が譲位し、皇太子の阿倍内親王が孝謙天皇として即位した。これにより、聖武天皇の皇女である井上内親王や不破内親王から、女性皇太子の地位を脅かしかねない男子後継者が生まれる心配はなくなり、姉妹にも伴侶を求める機会が与えられた。752年ごろまでに、井上内親王は権力争いに巻き込まれる恐れのない白壁王と結婚した。754年に酒人女王が、761年に他戸王が生まれている。白壁王はこの後昇進を速め、759年には50歳で従三位となり、762年に中納言に任ぜられた。764年の藤原仲麻呂の乱の鎮圧では功績を挙げて称徳天皇の信任を得、766年に大納言へ進んだ。度重なる政変で多くの親王や王が粛清されるなか、白壁王はもっぱら酒を飲んで過ごし、凡庸で暗愚なふりをして難を逃れたといわれる。
770年に称徳天皇が亡くなったが、生涯独身の天皇に後継者はなく、粛清のために天武天皇の嫡流の男系皇族も少なくなっていた。白壁王は天智天皇の系統だが、妃の井上内親王は聖武天皇の皇女で、二人の子の他戸王は天武天皇の血を引く男性皇族だった。遺宣に基づいて立太子が行われ、同年10月1日、62歳の白壁王は大極殿で即位し、元号は宝亀と改められた。この決定をめぐっては、文室浄三、その弟の大市を推す吉備真備と、白壁王を推す藤原永手・藤原宿奈麻呂らが対立し、藤原百川の働きで白壁王の立太子が実現したとも伝えられる。
即位後、井上内親王を皇后、他戸親王を皇太子に立てたが、772年に皇后が呪詛による大逆を図ったと密告されて廃され、皇太子の他戸親王も廃された。773年には高野新笠所生の山部親王(のちの桓武天皇)が皇太子となった。背景には藤原百川ら藤原式家と、山部親王を擁立する人々の陰謀があったとされる。同年、天皇の同母姉・難波内親王が亡くなると、呪い殺した罪で井上内親王と他戸親王は庶人に落とされ、大和国宇智郡の邸に幽閉された。775年4月27日、母子は同じ日に急逝し、暗殺説も根強い。これで天武天皇の皇統は完全に絶えた。
その後は天変地異が続いた。即位に便宜を図った藤原蔵下麻呂が急死すると、776年に祟りを恐れた天皇は秋篠寺建立を勅願した。777年には天皇も皇太子の山部親王も大病を患い、これを井上内親王の怨霊によるものと考えて、その遺骨を改葬し墓を御墓と追称した。781年の元日には、伊勢斎宮に現れた美雲の瑞祥により天応と改元した。元日の改元は日本史上唯一の例である。天皇は70歳を超えても政務に励んだが、781年2月に第1皇女の能登内親王に先立たれると、心身が急に衰えたとされる。同年4月、左兵庫の武器が自然に鳴る怪異があって病となり、4月3日に病を理由に山部親王へ譲位して太上天皇となった。12月23日に73歳で崩御した。崩御の翌年に広岡山陵へ葬られ、786年に田原陵へ改葬された。現在の陵は奈良市日笠町の田原東陵に治定され、皇居の皇霊殿でも歴代天皇とともに祀られている。桓武天皇が一周忌の斎会を営んだ故事にちなみ、奈良市の大安寺では毎年1月23日に「光仁会」が行われている。
同じ年に亡くなった人物
- Khalid ibn Barmak (782年)
- リオバ・フォン・タウバービショフスハイム (782年)