HISTORICAL PERSON · 1843年没

ロバート・サウジー

ワーズワースやコールリッジの友人で、湖水詩人の1人。1813年に桂冠詩人となったイギリスのロマン派詩人。『ネルソン提督伝』は英国で伝記の古典とされ、児童文学『3びきのくま』やブラジル史も著した。

生涯
1843年没
死亡地
イギリス連邦(カンブリア / ケズィック)
出生地
イギリス連邦(ブリストル)
出典
世界地図
イギリス連邦(カンブリア)

伝記

ロバート・サウジーは、1774年8月12日に生まれ、1843年3月21日に没したイギリスのロマン派詩人で、いわゆる「湖水詩人」の一人であり、桂冠詩人でもあった。同時代の友人ワーズワースやコールリッジの陰に隠れがちだが、多くの書簡を書き、文学史家、歴史家、伝記作家でもあった。ポルトガル語・スペイン語学者としても知られ、多くの作品を英訳し、ブラジル史や半島戦争史を書いた。児童文学の古典『3びきのくま』の最初の出版形も、サウジーの作品に含まれている。

ブリストルに、父トーマス、母マーガレット・ヒルの子として生まれた。ロンドンのウェストミンスター・スクールで学んだが、鞭打ちを非難する記事を雑誌に書いたため退学させられた。その後オックスフォード大学ベリオール・カレッジに進み、在学中のことを、後に「私がそこで学んだことといえば、泳ぎをちょっと……あとボート漕ぎもちょっと」と語った。コールリッジと試作をしたのち、1794年に最初の詩集を出版した。同じ年、コールリッジらとアメリカで理想主義的なコミューンを作ることを話し合い、そこでは財産は共有されて、各々が全員のために働き、小さな家の中には最良の本が置かれるだろうと夢見た。計画は後にウェールズに場所を移して再び持ち上がったが、サウジーはうまくいきそうにないとして、この考えを否定するグループの先頭に立った。

1795年11月14日、ブリストルの教会で、コールリッジの妻サラの姉妹エディス・フリッカーと結婚した。湖水地方のケズィックのグレタ・ホールに居を構え、細々とした収入で暮らした。1808年にウォルター・サヴェジ・ランドーと知り合い、互いの作品を賞賛し合って、大の親友となった。1809年から『クォータリー・レヴュー』誌に寄稿を始め、1813年にはかなり名を知られるようになり、ウォルター・スコットが辞退した桂冠詩人の地位を得た。1805年のトラファルガー海戦後のネルソンブームで、関連本の書評を同誌に書いたところ、出版者から100ギニーの原稿料でネルソン伝の執筆を勧められた。海軍にいた弟の協力を得て、1813年に『ネルソン提督伝』を刊行した。生前に6版を重ね、英国では、ネルソンの伝記といえばサウジーの作品といわれるほどの古典となった。1819年には土木技師トーマス・テルフォードと知り合い、親友となり、スコットランド高地の旅行に同行して日記に記した。この日記は、没後の1929年に出版された。

1838年に妻エディスが亡くなり、詩人キャロライン・アン・ボールズと再婚した。1839年に友人ランドーへ最後の手紙を書いた頃には心が不安定になっており、他の言葉は言えなくなってもランドーの名前は言い続けたという。『インチケープの岩』や、ブレンハイムの戦いを扱った最初期の反戦詩『ブレンハイムの後で』などの詩は、今もイギリスの学童に愛読される。

サウジーは元来、ラディカルなフランス革命支持者だったが、ワーズワースやコールリッジに従って保守主義に転向した。桂冠詩人としてトーリー党の権力機構に受け入れられ、1807年から毎年俸給も受け、積極的に抑圧的なリヴァプール政権を支持した。議会改革やカトリック解放に反対し、1817年には「名誉毀損」や「治安妨害」の罪を犯した人間を流刑にすることを提案し、ウーラーやホーンらの起訴を主張した。かつての同志を起訴しようとしたとして、ラディカリストたちから金と社会的地位のために身を売ったと攻撃され、ハズリットも辛辣に評した。バイロンも『ドン・ジュアン』で皮肉な献辞を捧げている。

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