伝記
ウィレム1世は、初代オランダ国王(在位1815年から1840年)であり、ルクセンブルク大公を兼ねた。1772年8月24日、ハーグに生まれた。父はネーデルラント連邦共和国の最後の総督だったオラニエ公ウィレム5世、母はプロイセン王女ヴィルヘルミーネである。長男として、1806年に父が死ぬまでは、父と区別するために「世襲公」と呼ばれた。弟のフレデリックとともに、スイスの数学者オイラーに学んだほか、歴史家トリウスらから教育を受けた。1787年に愛国派の反乱が鎮圧されたのち、兄弟はブラウンシュヴァイクの士官学校に学んだ。1790年には各国の宮廷を訪れ、ベルリンで将来の妻と出会った。1791年に、プロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム2世の娘で従妹にあたるヴィルヘルミーネと、ポツダムで結婚した。
1793年にフランスがオランダに宣戦布告すると、オランダ軍の野戦軍の総司令官に任命され、1793年から95年のフランドル戦役で部隊を率いた。フルネやメナン、ウェルヴィクなどで戦い、1794年のフルーリュスの戦いにも加わった。しかしフランス軍の勢いは強く、同盟軍の指導陣には経験が足りなかった。冬に川が凍ると、フランス軍は防衛線を突破し、1795年にバタヴィア革命が起こった。総督の父は、息子たちとイギリスに亡命し、翌日にバタヴィア共和国が宣言された。1799年にはイギリス軍に加わり、現在の北ホラントに上陸して、バタヴィア共和国に侵攻したが、期待した民衆の蜂起は起こらず、撃退された。亡命中の1802年に、父がオラニエ公の称号とともに家督を譲り、父は1806年にドイツで死去した。
プロイセン軍に参加していたウィレムは、1806年のアウエルシュタットの戦いで戦い、2日後にエアフルトをフランス軍に明け渡した。この重要な町のあっけない降伏は、後の調査委員会で大きな問題とされたが、義兄のプロイセン国王が介入したため、処罰を免れた。1813年にフランス軍が撤退すると、オランダに帰還し、臨時政府から君主の称号を受けた。1815年、ウィーン会議により、共和制だったオランダとハプスブルク家領だった南ネーデルラントを併せて、立憲君主国オランダ王国が成立すると、初代国王に即位した。ナッサウ家の古くからの所領がプロイセンに併合されるのと引き換えに、ルクセンブルク大公を兼ねた。
「開明的専制君主」「商人王」などと評される。保守派のブルジョワジーや旧都市貴族を支えとして、政治権力を独占した。南北ネーデルラントは20年にわたる動乱で経済活動が混乱しており、その建て直しのため、商工業の振興に力を注いだ。また、200年にわたって分かれてきた南北ネーデルラントの統合を推し進めようとしたが、統合は破綻した。1830年にフランスの七月革命の余波でブリュッセルで暴動が起こり、ベルギー独立革命へと発展した。ベルギーは独立してレオポルド1世を国王に迎えた。ウィレム1世は失意のうちに1840年に退位して、息子のウィレム2世に王位を譲り、ベルリンへ移住した。1841年に、長年の愛人であったベルギー人貴族のカトリック教徒と貴賤結婚し、彼女にナッサウ伯爵夫人の称号を与えた。1843年12月12日に没した。かつて10ギルダー紙幣に肖像が使われていた。
同じ年に亡くなった人物
- ウィリアム・ウォレス (数学者) (1843年没)
- フランシス・スコット・キー (1843年没)
- ピョートル・ヴィトゲンシュテイン (1843年没)
- Josep Bonaplata i Corriol (1843年没)
- Friedrich von Adelung (1843年没)
同じ地域に関係する人物
- ユリウス・ファルケンシュタイン (俳優) (1933年没)
- アーデルベルト・フォン・シャミッソー (1838年没)
- エヂュアート・ダヴィッド (1930年没)
- クリストフ・ヴィルヘルム・フーフェラント (1836年没)
- フリードリヒ・シュライアマハー (1834年没)