伝記
エゼルバルドは、8世紀にマーシア王国を治めた王で、757年に没した。アルウェオの息子でエオワの孫にあたる。716年に従兄弟のケオルレッド王が急死した後、マーシアに帰還して王位に就き、約40年間その地位を保った。この間にマーシアは、かつてのペンダ王やウルフヘレ王の頃の隆盛を取り戻し、アングロサクソン七王国の中で支配的な地位を築いたが、最後は衛兵に暗殺された。
マーシア王家の血筋ではあるが、父アルウェオは王ではなかった。祖父エオワは、弟ペンダと共同で王位にあったとする資料がある。一方、『アングロサクソン年代記』にエオワの記述はなく、後代の『ブリトン人の歴史』と『カンブリア年代記』は彼を王としている。彼が幼い頃のマーシア王家はペンダの血筋が支配し、ペンダの孫ケオルレッドが709年から716年まで王位にあった。初期の資料である『聖グスラックの生涯』によれば、エゼルバルドはこのケオルレッドに国外へ追放された。追放された彼は手下とともにイーストアングリアの湿地帯クローランドに身を隠し、そこで隠者として暮らす聖グスラックを訪ねた。グスラックは彼の身の上に同情したといい、グスラックの死後、エゼルバルドの夢にグスラックが現れて大願成就を予言したとされる。彼は即位後、その報いとしてグスラックを記念する修道院を建てた。716年にケオルレッドが宴会の最中に発作を起こして死ぬと、エゼルバルドは帰国して王位に就いた。
治世のマーシアは復権を果たし、それは8世紀の終わりまで続いた。在位が一年に満たなかったベオルンレッドを除けば、エゼルバルドとオファという二人の強力な王が80年間統治した。当時こうした長期政権は稀で、ノーサンブリアでは同じ頃に11人の王がおり、その多くが暴力による死を迎えた。ベーダによれば、彼は731年までにハンバー川以南のイングランド南部を手中に収めた。ベーダは、南部の諸国が各自の王とともにエゼルバルドに服属したと記している。736年のイスメレ勅許状では、彼は「マーシアのみならずイングランド南部と称されるすべての地域の王」とされ、証人欄には「ブリタニアの王」との記述もある。ケントのウィトレッド王は725年に死去し、ウェセックスのイネ王は726年に退位してローマへ巡礼に出た。733年には彼自身がウェセックスへ遠征してサマトンの荘園を手に入れた。740年には新王クスレッドが彼に戦いを挑み、3年後にはクスレッドとともにウェールズと戦った。752年にふたたび敵対し、ある写本によれば、クスレッドはバーフォードで彼を敗走させたという。740年にはピクト人の王オェングスと同盟を組んだ模様で、ノーサンブリアを荒らし、おそらくヨークを焼き払った。
教会との関係は穏やかでなかった。745年から746年にかけて、聖ボニファティウスが他の7人の司教と連名で、教会収益の窃取や教会特権の侵害、聖職者への強制労働、修道女との姦通などの罪を問う手紙を送り、妻を娶って色欲の罪を絶つよう説いた。747年のクロブショー教会会議を経て、749年のガムリーの勅許状で教会の義務を免除したが、これはその書簡への対応であった。
757年、一説には相続をめぐる争いにより、衛兵に殺された。死後にベオルンレッドが王位に就いたが、同じ年のうちに、エゼルバルドの従兄弟エアンウルフの孫にあたるオファが内戦を経て王位を奪った。オファのもとでマーシアは最盛期を迎えた。
同じ年に亡くなった人物
- 安禄山 (757年没)
- シゲベルト (ウェセックス王) (757年)
- アルフォンソ1世 (アストゥリアス王) (757年没)
- イブン・アル=ムカッファ (757年没)
- イスマーイール・イブン・ジャアファル (757年(推定))
同じ地域に関係する人物
- ピアーズ・ギャヴィストン (初代コーンウォール伯) (1312年没)
- シリル・ラドクリフ (1977年没)
- John Shakespeare (1601年没)
- ヘンリー・プラム (2022年没)
- ウィリアム・レンショー (1904年没)