伝記
ザカリアスは、第91代ローマ教皇(在位741年12月3日から752年3月15日)である。679年ごろの生まれとされ、出身はカラブリアで、ギリシア系の住民の出であった。スペイン語版の記述によれば、ポリクロノスというギリシア系入植者の子で、教皇に就くまでの前半生はほとんど知られていない。おそらくローマ教会の助祭を務め、732年のローマ教会会議の決定に署名したという。741年11月28日に先代のグレゴリウス3世が死去すると、同じ日か数日後の12月3日、あるいは5日に教皇に選ばれたとされる。
即位の時点で、ローマ市とローマ公国の立場はきわめて苦しかった。ランゴバルド王リウトプランドが新たにローマ領へ侵入する構えを見せていたうえ、スポレート公トラサムンド2世は、グレゴリウス3世と結んだ同盟にもかかわらず、奪われた諸都市の奪回を助けるという約束を果たさなかった。そこでザカリアスは公との同盟を捨て、リウトプランドへの個人的な働きかけによって、ローマとその領土の利益を守ろうとした。ラヴェンナ総督領の求めに応じて、王にラヴェンナ攻撃の計画を思いとどまらせ、奪った領土も返させたという。741年には20年続く休戦を取りつけ、ローマ公国の領土の多くを取り戻したと伝えられる。教皇伝の著者は、彼を穏やかで協調的な性格の人物とし、聖職者にも民衆にも慈善深かったと記している。
東ローマ帝国との関係でも、彼は粘り強く交渉した。皇帝レオーン3世は先代の教皇と同じ741年に世を去り、息子のコンスタンティノス5世が跡を継いでいた。就任直後、ザカリアスは選出を知らせる書簡をコンスタンティノープルへ送ったが、宛先は教会であり、聖像破壊を支持する総主教アナスタシオスには宛てなかった。使節は皇帝への書簡も携え、聖像崇敬の教えと実践へ戻るよう促したが、都では反乱で帝位を奪ったアルタバスドスに出会った。743年にコンスタンティノスが復位すると、使節は好意的に迎えられた。皇帝は聖像破壊の方針を改めなかったものの、ランゴバルドの侵入を退けた教皇の働きを評価し、ニンファとノルバの町をローマ教会に寄進した。教皇はコンスタンティノープルを追われた修道士たちの保護にも努めた。彼は、選出を東ローマの支配者に通知して承認を求めた最後の教皇とされ、こうして教皇庁は次第に西方へ向かった。教皇の死後、コンスタンティノス5世は聖像破壊をいっそう強め、754年にはヒエリア教会会議が開かれた。
一方で、ドイツ布教を進めていたマインツ大司教ボニファティウスと文通を続け、素行の悪い高位聖職者ミロへの対処などを助言した。ミロは744年、ソワソンの教会会議で罷免された。751年には、フランク王国のメロヴィング朝の王キルデリク3世を退けてピピン3世が王位に就くことを支持し、カロリング朝の創設を助けた。このとき「力なき者が王であるより、力ある者が王であるべきだ」と述べて、ピピンを強く支持したという。752年3月15日、在位10年3か月12日で世を去った。カトリック教会の聖人とされ、記念日は3月22日である。ローマ教会会議では、民間で過熱した天使信仰を抑えるため、聖書正典に名の挙がるミカエル、ガブリエル、ラファエル以外の天使に堕天使の烙印を押したことでも知られる。聖像破壊と奴隷売買に断固反対した人物でもあり、肖像画家と風刺画家の守護聖人とされている。
同じ年に亡くなった人物
- ステファヌス (教皇選出者) (752年没)
同じ地域に関係する人物
- マルクス・クロディウス・プピエヌス・マクシムス (238年没)
- ルイジ・マーニ (2013年没)
- Herennia Etruscilla (251年没)
- マリア・デ・モンペリエ (1213年没)
- テウトボド王 (紀元前100)