HISTORICAL PERSON · 748年没

元正天皇

日本の第44代天皇で、独身で即位した初の女性天皇。母の元明天皇から譲位されて715年に即位し、養老律令の編纂を始め、日本書紀が完成した。三世一身法を制定し、724年に聖武天皇へ譲位した。

生涯
748年没
死亡地
日本(奈良県 / 平城宮)
出生地
日本(飛鳥京)
出典
世界地図
日本(奈良県)

伝記

元正天皇(680年 - 748年5月22日)は、日本の第44代天皇である。在位は715年10月3日から724年3月3日まで。諱は氷高、日高、または新家といい、和風諡号は日本根子高瑞浄足姫天皇という。「元正」の漢風諡号がいつ誰によって贈られたかは記録がなく不明で、淡海三船による一括撰上に含まれていたかと推測されている。女帝としては5人目だが、それまでの女帝が皇后や皇太子妃だったのに対し、結婚の経験がなく、独身で即位した初めての女性天皇であった。また、女帝から女帝へと位を受け継いだ、唯一の例でもある。

天武天皇の皇太子だった草壁皇子の長女として生まれ、母は阿閇皇女、のちの元明天皇である。天武天皇と持統天皇の孫にあたり、母方では天智天皇の孫でもある。幼いころから嫡孫女として重んじられたらしく、682年には日高皇女の病を理由に罪人198人が恩赦された。683年には3歳下の同母弟の珂瑠、のちの文武天皇が生まれた。父の草壁皇子は即位することなく689年に亡くなり、祖母の持統天皇の即位を経て、珂瑠皇子が697年に譲位を受けて天皇となった。このとき日高皇女は18歳で、天皇の同母姉という立場が、非婚に影響したのだろうと考えられている。

707年に文武天皇が亡くなったとき、遺児の首親王はまだ幼く、母の阿閇皇女が即位して元明天皇となった。710年には平城京に遷都している。714年1月に二品氷高内親王は食封一千戸を与えられ、715年1月には一品に進んだ。同じ年の9月2日、皇太子で甥の首親王がまだ若いため、元明天皇から譲位を受けて即位した。首親王は714年に皇太子に立てられ、このとき14歳だったとされる。『続日本紀』に載る譲位の詔は、氷高を慈悲深く落ち着いた人柄で、あでやかで美しいと記している。その即位は、首親王が成長して皇位に就くまでの中継ぎの意味をもったと説明される。

在位中には国家の制度や記録の整備が進んだ。717年から藤原不比等らが中心となって養老律令の編纂が始まり、720年には日本書紀が完成した。この年に不比等は病に倒れて亡くなった。翌721年、天武天皇の孫で天皇のいとこ、かつ妹の吉備内親王の夫である長屋王が右大臣に任じられ、事実上政務を任された。不比等の長男の武智麻呂は中納言、次男の房前はまだ参議であった。723年には、田地の不足を解消するために三世一身法が制定された。新たに開墾した田を三世代にわたり所有できるとするもので、長屋王の発案とされ、約20年しか続かなかった。この法により律令制は崩れ始めていくことになったとされる。この権力の移りは、のちに聖武天皇の時代に起こる長屋王と不比等の四人の子らとの対立の背景となった。元号は霊亀の3年11月17日、美濃国に美泉の祥瑞があったことを理由に養老へ改められた。

724年2月4日、元正天皇は皇太子の首親王、すなわち聖武天皇に譲位して太上天皇となった。譲位の詔では新帝を「我子」と呼び、譲位後も後見人として聖武天皇を支えた。743年に聖武天皇が病気がちで職務を執れなくなると、上皇は再び「我子」と呼んで天皇を擁護する詔を出し、翌年には病の天皇の名代として難波京遷都の勅を発した。晩年の上皇は、仏教信仰に傾きがちな聖武天皇に代わり、橘諸兄や藤原仲麻呂らと政務を行っていたと考えられている。譲位後25年を生き、748年5月22日に65歳で亡くなった。陵は奈良市奈良阪町の奈保山西陵に治定されている。

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