伝記
ヴィンチェンツォ・ベッリーニは、1801年11月3日にシチリア島のカターニアで生まれ、1835年9月23日にパリ近郊で没した作曲家で、主にオペラで知られる。名字はベルリーニ、ベリーニとも表記される。ロッシーニやドニゼッティとともに、ベルカント・オペラと称される19世紀前半のイタリアオペラを代表する。長く優美な旋律を特徴とし、ショパン、ベルリオーズ、ワーグナーらの賞賛を得ている。1985年から1996年まで発行された5000イタリア・リレ紙幣に肖像が採用された。
合唱指揮者でオルガニストだったロサリオ・ベッリーニを父とし、第1子としてカターニアに生まれた。祖父ヴィンチェンツォ・トビアも作曲家で、1767年以降カターニアでオルガニスト兼教師を務め、父も同じだった。祖父と同じ名を付けられ、3歳で音楽の勉強を始めたとされ、6歳で最初の宗教声楽曲を作曲したという。ただし、市立博物館にある匿名の手書きの伝記は、18か月でアリアを歌ったなどと述べるが、評伝作者ワインストックはその一部を神話にすぎないとし、別の評伝作者も神童という評判に懐疑的である。1816年以降は祖父のもとで暮らして最初の音楽の手ほどきを受け、1818年までに、複数の管弦楽曲と、ニ長調とト長調の2曲のミサ曲を書いた。
さらなる勉強のため、ナポリに移ることを望んだが、家に余裕はなかった。転機は、カターニア県の新しい長官となったサン・マルティーノ公爵夫妻が、市当局に奨学金を申請するよう勧めたことで、1819年5月に4年間の奨学金が全会一致で認められた。7月に紹介状を携えてカターニアを発ち、ナポリの王立サン・セバスティアーノ音楽院に入学して、フルノ、トリット、ツィンガレッリに師事した。ナポリには以後8年間暮らした。この時期に2曲のミサ曲を含む約20の宗教声楽曲、6つの交響曲、オーボエと弦楽のための協奏曲などを書いた。
在学中の1825年に最初のオペラ『アデルソンとサルヴィーニ』を書き、学校付属の小劇場で初演した。これが当時いくつものオペラハウスの支配人だったドメニコ・バルバイアの目に留まり、サン・カルロ劇場のための新作を依頼された。そこで生まれた第2作『ビアンカとジェルナンド』は1826年に初演されて好評を得たが、名テノール歌手ルビーニの歌唱に接したことが、以後の創作に大きな影響を与えたといわれる。この成功を受け、バルバイアはミラノ・スカラ座の新作を依頼し、第3作『海賊』が1827年に初演されて大成功を収めた。ベッリーニはロッシーニの後継者と目され、貴族階級のサロンに迎えられた。この作品で初めて台本作家フェリーチェ・ロマーニと組み、彼を「私の音楽的霊感の源泉」と呼んで、第10作『テンダのベアトリーチェ』までの7作で台本を採用した。1830年にはヴェネツィアで『カプレーティとモンテッキ』を初演した。
1831年、29歳で『夢遊病の女』を発表して大好評を博したが、自身は管弦楽法の未熟さを認識しており、改めて学習したと言われる。同年12月には『ノルマ』が初演された。1833年に『テンダのベアトリーチェ』の不評から再起するためパリに移住し、1835年1月に最後のオペラ『清教徒』が大成功を収めたが、病を得て9月23日に33歳で死去した。慢性の腸疾患だったと言われる。パリのペール・ラシェーズ墓地に埋葬されたが、その後遺体はカターニアに再埋葬された。
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