HISTORICAL PERSON · 1840年没

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世 (プロイセン王)

プロイセン国王。ナポレオンとの戦いに敗れた危機の時代に在位し、王領地の農奴の解放なども行った。

生涯
1840年没
死亡地
ドイツ連邦共和国(ベルリン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ポツダム)
出典
世界地図
ドイツ連邦共和国(ベルリン)

伝記

フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、1797年から1840年まで在位したプロイセン国王である。1770年8月3日にポツダムで生まれ、1840年6月7日にベルリンで没した。家庭ではよい父だったが、消極的な平和主義に固執し、ナポレオンとの戦いに敗れるという危機の時代にあっても、改革を主導する能力と意欲を欠いていた。しかしこの時代、プロイセンには文武ともに有能な人材が輩出し、近代化も進んだ。

父はフリードリヒ・ヴィルヘルム2世、母は妃フリーデリケである。父王の果てしない漁色に嫌悪を感じて育ち、「分かる。不愉快」といった主語を欠いた、横柄に響く断片的な話し方を身につけた。動詞の人称を無視して不定詞のまま使ったため、「不定詞王」とあだ名されたという。1793年12月24日、美貌で名高いメクレンブルク=シュトレーリッツ公女ルイーゼと結婚した。父のように何人も愛人を持つことはなく、ルイーゼだけを愛したので、夫婦仲は円満で、国民からは理想の夫婦として敬われた。1797年11月16日に父の後を継いで即位してからも、質素で市民的な生活を続けた。即位すると父の愛妾たちを宮廷から追放し、最も権勢を誇った人物を、横領や詐欺、国家反逆の罪でグローガウに幽閉している。

王領地の農奴を解放するなど、ある程度進歩的な政策を実行したが、改革はユンカーと土地との結びつきを破壊することができず、王の優柔不断のせいで遅々として進まなかった。側近の一人は、「王の一番好きな時は考えている時だ」と密かにもらした。プロイセンはフランス革命に干渉して、フランスから有利な講和を引き出していた。ナポレオンはロシアとの関係の悪化にともない、プロイセンを味方につけようとしたが、王の優柔不断は平和の維持に固執し、ナポレオンの怒りを買ってその進軍を招いた。名誉を汚されたと感じた王は、無計画に戦争状態に入り、1806年にイェーナとアウエルシュタットで、常勝のナポレオン軍に敗れた。

プロイセン軍は余力を残していたにもかかわらず、速やかに降伏した。ベルリンに入城したナポレオンは市民の歓呼で迎えられ、王と家族はケーニヒスベルクに逃れた。勝ち目のない戦いが続くなか、無能な王に代わって、少しでも有利な条件の講和を求めて奔走したのは、ルイーゼ王妃だった。このため彼女は国家の崩壊を防いだとして、王国中の賛美と尊敬を集めた。1807年7月7日のティルジット条約で、領土の半分を失ったものの、滅亡は免れた。軍事でも行政でも改革が始まったが、その先頭に立ったのは王ではなく、シュタイン、ハルデンベルク、フンボルト、グナイゼナウ、シャルンホルストなどの臣下たちだった。またフィヒテらの愛国主義者によって、ナショナリズムも高まった。

ナポレオンが敗れ、プロイセンが以前の勢力を取り戻した後、改革で達成された自由は、王の反動政策によって、再び旧に復した。メッテルニヒの影響で反動姿勢を強め、1819年のカールスバート決議に基づき、民族主義を唱える学生たちを弾圧し、アルントら自由主義者を投獄するよう命じた。1817年には、国内の宗教を超宗派で結集することを望み、ルター派とカルヴァン派を合同したプロイセン福音主義教会を結成させた。一方、ラインラントに多かったカトリックや、教会合同を拒否した古ルター派には、不寛容になった。1810年にルイーゼ王妃が没した後は独身だったが、1824年にハラハ伯爵夫人アウグステと再婚した。1826年には、ベートーヴェンから交響曲第9番を献呈された。長子フリードリヒ・ヴィルヘルム4世が後を継いだ。

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