伝記
ナポレオン2世は、1811年3月20日に生まれ、1832年7月22日にわずか21歳で亡くなったナポレオン1世の嫡男で、フランス帝国の皇太子、ローマ王である。名目上、1815年6月22日から7月7日までは「フランス人民の皇帝」でもあった。オーストリア宮廷で養育され、「ライヒシュタット公」の称号を与えられた。彼の死によって、ナポレオン1世の男系の直系は絶えたとされる。実子を欲したナポレオン1世は、ヴァグラムの戦いの勝利を背景に、神聖ローマ皇帝フランツ2世の長女マリー・ルイーゼに求婚して受諾させた。1810年1月にジョゼフィーヌ皇后との婚姻の無効を成立させ、同年4月に新しい皇后と結婚式を挙げた。マリー・ルイーゼはナポレオンを残忍な「人食い男」と思っていたが、実際には親しみを抱いた。
同年7月に懐妊が判明すると、ナポレオン1世は非常に喜んだ。男児ならローマ王の称号を与えると決めていた。1811年3月20日、皇后が一時危険な状態になると、ナポレオンは母を救うよう指示した。難産の末に誕生したが、当初は死産と思われた。養育掛のモンテスキュー伯爵夫人が新生児を優しく叩くと、泣き声を上げ、ナポレオンは狂喜した。誕生時は体重4500グラム、身長56センチで、その日のうちに洗礼が行われ、6月9日にノートルダム大聖堂で盛大な洗礼式が催された。ナポレオン1世は後継者を溺愛し、皇子が初めて喋った言葉も「パパ」だったという。
1814年、ナポレオン1世が劣勢になると、母子はテュイルリー宮殿を脱出した。4月6日にナポレオン1世が退位すると、母子はオーストリア側に迎えられ、祖父フランツ1世と初めて対面した。5月21日にウィーンに「帰国」した。父はエルバ島へ流された。1815年2月に父が復位すると、4歳の誕生日に養育掛が解雇され、フランス人の使用人たちも退けられて、周囲からフランス色は排除された。ワーテルローの戦いで敗れたナポレオン1世は、息子への譲位を条件に退位し、名目上の「皇帝」となった。
新しい家庭教師はオーストリア・ドイツ風の教育を行ったが、少年は「自分はフランス人である」という自覚を持ち、抵抗した。1816年3月に母がパルマ公国の統治のため旅立つと、祖父は誘拐や暴動を案じて彼をウィーンに残した。家名は「ライヒシュタット公」とされ、1818年8月22日に正式に叙された。母とは2年以上の別れの後、1818年6月に再会した。母は首相のナイペルク伯との間に子をもうけ、息子との面会の約束を何度も破った。1821年5月5日、一度も会えなかった父がセントヘレナ島で亡くなり、7月に知らせを受けた少年は、机に伏して号泣した。同年8月、母とナイペルク伯は極秘に再婚していた。
1823年に結核を発病した。1824年に叔父フランツ・カール大公がバイエルン王女ゾフィーと結婚すると、舞踏会で踊る機会も増え、活発で美しく品格のある13歳の公は社交界に受け入れられた。ナポレオン崇拝者の室内装飾家が馬車にフランス帰還を求める手紙を投げ込む事件もあり、公は父の資料を熱心に読み始め、ラス・カーズの回想録などに夢中になった。1828年8月、祖父は修学状況を認めて陸軍大尉に任じた。母がエジプト遠征時の父のトルコ風の刀を授けると、生涯愛用した。1829年にナイペルク伯が亡くなり、母が再婚と子の存在を公にすると、公は衝撃で言葉を失った。
同じ年に亡くなった人物
- ラスムス・ラスク (1832年没)
- ジャン=アントワーヌ・シャプタル (1832年没)
- ヴィルヘルム・ベンズ (1832年没)
- アンリ・カッシーニ (1832年没)
- ウォルター・スコット (1832年没)
同じ地域に関係する人物
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- フランツ・シューベルト (1828年没)
- ヘルマ・バウマ (2003年没)
- フランツ・メルテンス (1927年没)
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