HISTORICAL PERSON · 1831年没

カール・フォン・クラウゼヴィッツ

プロイセンの軍人・軍事学者。ナポレオン戦争に参加し、死後の1832年に発表された『戦争論』で、政治の延長としての戦争などの概念を示した。

生涯
1831年没
死亡地
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県 / ヴロツワフ)
出生地
ドイツ連邦共和国(ブルク (バイ・マクデブルク))
出典
世界地図
ポーランド共和国(ドルヌィ・シロンスク県)

伝記

カール・フォン・クラウゼヴィッツは、1780年7月1日に生まれ、1831年11月16日に没したプロイセン王国の陸軍軍人であり、軍事学者である。最終階級は陸軍少将。ナポレオン戦争にプロイセン陸軍の将校として参加し、シャルンホルストとグナイゼナウに師事した。戦後は研究と著述に専念し、死後の1832年に発表された『戦争論』で、戦略、戦闘、戦術の研究に重要な業績を残した。政治的交渉の延長としての戦争、摩擦、戦場の霧、重心、軍事的天才などの概念は、特によく知られる。

マクデブルクの東北20キロにあるブルクの町で、ポーランド系ドイツ人の家に生まれた。父は七年戦争の末期に少尉として従軍し、退役後は徴税官となった。夫妻は4人の息子と2人の娘を儲け、カールは一番下の弟だった。4人の息子のうち3人は将校とされ、クラウゼヴィッツは1792年に12歳でポツダムのフェルディナント王子歩兵連隊に入隊した。第一次対仏同盟戦争で、連隊は1794年3月にマインツの攻城戦に初めて参加し、行軍の途上で彼は旗手を務めている。フランス軍が降伏する2日前に、将校相当の准士官に昇進した。少尉に任官した15歳からの6年間はノイルピーンで過ごした。連隊長の考課表は、有能で熱心、頭脳明晰で好奇心旺盛と評価した。1801年にベルリンの士官学校に送られ、後に父でもあり心の友であったと評するシャルンホルストのもとで軍事学を学び、シャルンホルストが設置した軍事学会にも入会した。ここで学術研究の様式を習得し、数学、論理学、地理学、歴史学、文学の教養と軍事学の専門知識を深め、1803年に首席で卒業した。卒業後はアウグスト王子の近衛大隊で副官となり、宮廷社会に入った。シラーの文学に親しみ、マキアヴェリやモンテスキューを読み、カント哲学の講義にも出席した。この頃に知り合ったマリー・フォン・ブリュールと、1805年に婚約した。

1806年10月14日、プロイセン軍はイエナ・アウエルシュタットの戦いで、フランス軍から壊滅的な打撃を受けた。彼の大隊もこの戦闘に参加し、退却に巻き込まれた。他の部隊が降伏するなか、近衛大隊だけは降伏を拒否してバルト海沿岸を目指したが、沼地で行動不能となり、降伏した。同年12月、フランス北東部のナンシーに捕虜として抑留された。厳しい抑留ではなかったので、フランス語の学習とパリの見学、著述活動ができた。1807年に釈放されて帰還し、ケーニヒスベルクに移ると、シュタインやフンボルト、シャルンホルストらが集まっていた。1809年にベルリンの陸軍省に移り、シャルンホルストの軍制改革を推進した。国民軍の創設、軍隊における貴族の特権廃止、陸軍大学校の準備が進められた。1810年10月に新設された陸軍大学校の教官になり、皇太子にも軍事学を教えた。同年12月、国王の許可を得てマリーと結婚し、子は生まれなかったが、生涯良好な夫婦関係を保った。マリーは没後に遺稿を編纂している。

1812年、プロイセンとフランスの軍事同盟に反対し、同年ロシアへ向かって、ロシア軍の中佐に任命された。12月26日にはロシア軍の軍使としてプロイセン軍のヨルクを訪ね、停戦交渉を行い、タウロッゲン協定の締結に成功した。1813年にはシュタインとともに東プロイセンで防衛軍の組織化に関わり、ブリュッヘル軍に配属されて、5月のグロースゲルシェンの戦いに参加した。1814年にようやくプロイセン軍への復帰を許され、大佐に任官した。

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