伝記
エミリア・プラテルは、ポーランド・リトアニアの貴族で、革命家、軍人である。伯爵夫人。1806年11月13日に生まれ、1831年12月23日に没した。11月蜂起に参加し、かつてのポーランド・リトアニア共和国を構成していたポーランド、リトアニア、ベラルーシの国民的英雄となった。
1806年にヴィリニュスで生まれた。一族はドイツのヴェストファーレンから移ってきたと伝わり、のちにリヴォニアやリトアニア大公国に移ったポーランド貴族の家柄で、完全にポーランド化していた。父フランチシェク・クサヴェリ・プラテルと母アンナは、エミリアが9歳の1815年に離婚した。一人っ子だった彼女は、リヴォニアのリークスナ(現在のラトビア)に領地を持つ遠い親戚のプラテル=ジベク家に引き取られて育った。この家はダウガヴァ川沿いに複数の領地と約1万5千人の農奴を持つ貴族だった。十分な教育を受け、独立運動家タデウシュ・コシチュシュコや詩人アダム・ミツキェヴィチに感化された。またジャンヌ・ダルクや、トルコ人に対するギリシア独立運動の象徴だったラスカリナ・ブブリナのような女性英雄に憧れた。こうした性格のせいで、幼いころから馬術や射撃に興味を持ち、19世紀初頭の貴族の娘らしからぬ少女であった。
1823年には従兄弟の一人が、1791年の五月三日憲法を祝った罰として強制的にロシア軍に徴兵された。この出来事が彼女の親ポーランド、反ロシアの姿勢を決定づけたとされる。1829年には旧ポーランド・リトアニア共和国領へのグランド・ツアーに赴き、ワルシャワやクラクフを訪れたが、母が亡くなったため帰宅した。父は再婚して、娘に会うことさえ拒んだという。翌年、ポーランドでロシア帝国政府に対する11月蜂起が始まったが、旧リトアニア大公国では初期には直接の影響がなく、皇帝に反対する運動も存在しなかった。そこでエミリアは、自らリトアニアでゲリラ運動を組織することを決めた。髪を切り、軍服を着け、志願兵を募って武装させた。集団は歩兵280人、騎兵60人、大鎌で武装した数百人の農民からなっていた。
ダウガフピルスからリトアニアに入り、1831年4月にザラサイの町を包囲したともいう。部隊はダウガフピルスに帰ろうとしたが、偵察隊が同市は強力な守備隊に守られていると知らせたため、小規模な部隊では太刀打ちできず、作戦は取りやめになった。ジェマイティヤに撤退してからパネヴェジスへ進み、カロル・ザウスキの部隊と合流した。その直後、デズィデリ・フワポフスキが大軍を率いて到着し、旧リトアニア大公国の蜂起軍のすべてが結集した。伝えられるところでは、フワポフスキは彼女に家に帰るよう説得したが、父祖の地に完全な自由をもたらすまでは軍服を脱がないと返答したという。決意は受け入れられ、ポーランド軍リトアニア歩兵連隊の連隊長となり、女性兵士に与えられた中では最高の等級である大尉にまで昇進した。
しかし、ポーランド軍は敗れ、フワポフスキ将軍はプロイセン国境を越えて亡命することを決めた。彼女は命令に従わず、戦線を突破してワルシャワへ向かい、戦い続けようとしたが、重い病に倒れ、1831年12月23日、ユスティナヴァスの屋敷で息を引き取った。死の報はすぐに公表され、彼女は蜂起を象徴する人物の一人となった。ミツキェヴィチは詩「大佐の死」で名を不朽のものにしたが、描かれた彼女は詩的なフィクションである。ポーランドの大都市にはたいてい彼女の名の通りがある。
同じ年に亡くなった人物
- バルトホルト・ゲオルク・ニーブール (1831年没)
- リチャード・アレン (1831年没)
- ヴァシーリー・ゴロヴニーン (1831年没)
- セバスチャン・エラール (1831年没)
- カジンツィ・フェレンツ (1831年没)
同じ地域に関係する人物
- ヴワディスワフ4世 (ポーランド王) (1648年没)
- Jan Czeczot (1847年没)
- アンタナス・スニエチュクス (1974年没)