伝記
コンスタンティヌスは、664年に生まれ、715年4月9日に亡くなった第88代ローマ教皇である。出身はシリアで、現在のレバノン南部にあたるティルスの生まれで、父の名はヨハネスだったとされる。教皇に就く前は副助祭を務めていた。『教皇列伝』は、まれに見る穏やかさをそなえた、優しく誠実な人物と描いている。708年2月4日に先代のシシニウスが急死したため、同年3月25日に教皇に選ばれた。
就任した当時のローマは、ひどい飢饉に見舞われていた。飢えは在位の前半を通じて続き、後半には一転して並外れた豊作が訪れたという。在位の初めには、ラヴェンナ大司教フェリクスが新しい教皇への服従を拒み、教区民に押される形で自らの座の自立を主張する争いも起きた。この件には皇帝ユスティニアノス2世が介入した。皇帝は報復としてラヴェンナの町を攻略して焼き払い、反抗した者たちを捕らえてコンスタンティノポリスへ連行したとされる。フェリクスは目を潰されてポントス地方へ追放されたが、のちにコンスタンティヌスが赦し、座を返したという。
最大の問題は、692年のトゥルロ公会議の決議をめぐる対立であった。この会議では102の教会法規が定められたが、東方のギリシア人が中心となって作られたため、ローマの教皇権と相いれない面があった。当時の教皇セルギウス1世は承認を拒み、ユスティニアノス2世は東ローマ皇帝による全教会の支配を教皇に認めさせようとしていた。交渉は695年の皇帝の退位でいったん棚上げされ、705年の復位後に再び動き出した。この問題はコンスタンティヌスの時代になってようやく片付いたとされる。
710年、皇帝から呼び出しを受けた教皇は、シルヴァ・カンディダの司教ニケタス、ポルトの司教、司祭三人、のちの教皇グレゴリウス2世となる助祭らを伴い、船でコンスタンティノポリスへ向かった。途中のナポリやシチリアでは丁重に迎えられ、首都では、共同皇帝である皇帝の子ティベリオスが元老院議員や聖職者、市民とともに出迎え、その到着は凱旋のようであったという。皇帝はニコメディアで教皇に会い、自ら教皇の前にひれ伏した。日曜日のミサでは皇帝が教皇から聖体を拝領し、ローマ教会の特権を更新したとされる。教皇は皇帝の要求を受け入れることなく、和睦に至ったとされる。
この会見の直後、ユスティニアノス2世はケルソンに軍を送って復讐しようとして反乱を招き、殺された。新皇帝フィリピコス・バルダネスは単意説を唱えて教皇と対立し、ローマでも反乱が起こって、教皇は鎮圧に努めねばならなかった。713年にフィリピコスが廃され、アナスタシオス2世が即位すると、新帝は正統派の教義を承認して教皇と和解し、帝国との関係は親密なものに落ち着いた。コンスタンティヌスは715年4月9日、在位7年15日で世を去り、サン・ピエトロ大聖堂に葬られた。
同じ年に亡くなった人物
- ムハンマド・ビン・カシム (715年没)
- ワリード1世 (715年没)
- クタイバ・イブン・ムスリム (715年没)
- ダゴベルト3世 (フランク王) (715年没)
同じ地域に関係する人物
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- エルザ・マルティネッリ (2017年没)
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