伝記
ピピン2世は、フランク王国の宮宰として680年から714年12月16日の死去までフランクの事実上の支配者であった人物で、「中ピピン」「エルスタルのピピン」とも呼ばれる。生年は635年とも640年ともされる。ピピン1世(大ピピン)の娘ベッガと、メッス司教アルヌルフの子アンゼギゼルの間に生まれ、大ピピンの孫にあたる。この結婚によってピッピン家とアルヌルフ家という二つの家が結ばれ、のちにカロリング朝と呼ばれる家系の基礎ができた。現在のベルギーにあるエルスタルで生まれたと考えられ、そこが勢力の中心でもあった。のちのピピン3世(小ピピン)の祖父であり、カール大帝の曾祖父にあたる。
680年にアウストラシアの宮宰となったピピンは、ラオン公マルティヌスとともに、全フランクの支配をねらうネウストリア宮宰エブロインと戦った。中央集権の伝統が強いネウストリアに対し、エブロインはリュコファオの戦いでアウストラシア勢を破ったが、681年に多くの敵の手で暗殺された。ピピンはすぐに後継のワラトーと和を結んだ。ところがその後継ベルカリウスと、679年から名目上全フランクの王となっていたネウストリア王テウデリク3世は、アウストラシアに戦いを挑んだ。メロヴィング朝のテウデリク3世にはピピンを排除する動きもあったが、失敗に終わっている。687年、ヴェルマンドワのテルトリーの戦いで王と宮宰は決定的に敗れた。ピピンはパリまで追って和平を結ばせ、ベルカリウスを辞職させた。こうして彼はアウストラシア、ネウストリア、ブルグントの三つの王国の宮宰を兼ね、「フランクの大公にして首長」と名乗るようになった。ベルカリウスの妻アンストルードは、ピピンの長男でシャンパーニュ大公のドロゴと再婚し、ネウストリアにおけるピピンの地位は固まった。
その後は国外へ目を向けた。ネウストリアの人々は、アウストラシア人の支配をしぶしぶ許していたにすぎないが、ピピンは国内の抵抗には深入りせず、ドイツ方面の経略を優先した。数年のうちにアラマン人、フリース人、フランケン人を従えてフランクの勢力圏に組み入れ、690年から692年の間にはユトレヒトが落ちた。これでライン川から北海に通じる重要な交易路がフランクの手に入った。宣教師ウィリブロルドの布教も支援している。695年には、ドロゴをブルグントの宮宰に、次男グリモアルド2世をネウストリアの宮宰に据えた。アウストラシア宮宰の職がピッピン家の世襲となったのもこのころである。
670年ごろ、ピピンはモーゼル地方の大きな所領を相続したプレクトルードと結婚し、ドロゴとグリモアルド2世をもうけた。ほかに側室(あるいは第二の妻)アルパイダとの間にカール・マルテルとキルデブラントがあり、素性のわからない側室との間にも子がいたとされる。しかしドロゴとグリモアルドは、いずれも父より先に世を去った。
死の直前、プレクトルードの説得により、ピピンはアルパイダの子らを廃し、グリモアルドの子で当時まだ幼いテウドアルドを後継者にした。テウドアルドは6歳だったといい、プレクトルードの意のままになりやすかった。ピピンは714年12月16日、ジュピユで79歳で急死した。プレクトルードの援助を受けた孫たちは自分たちが正統な後継者だと主張したが、アウストラシアの人々の支持を得たのは、軍事的才能と戦利品を気前よく配ったカール・マルテルであった。プレクトルードがカールを捕らえて抑えようとしたにもかかわらず、ピピンの死後3年以上続いた内戦を経て、カールが宮宰となってフランクの事実上の支配者となった。
同じ年に亡くなった人物
- Sa'id ibn Jubayr (714年)
- 殤帝 (唐) (714年没)
- グリモアルド2世 (714年没)
- ハッジャージ (714年)
- フィリピコス・バルダネス (714年没)
同じ地域に関係する人物
- エミール・マソンJr. (2011年没)
- ジャック・オックス (1971年没)
- ジョゼフ・ジョンゲン (1953年没)
- ランベール・ロンバール (1566年没)
- Notker of Liege (1008年没)