伝記
グリモアルド2世は、フランク王国のネウストリア宮宰を務めた人物で、「幼グリモアルド」「エルスタルのグリモアルド」とも呼ばれる。714年に没した。アウストラシア宮宰ピピン2世(エルスタルのピピン)と正妻プレクトルードの子で、次男とされるが、同時代の年代記の続編を典拠に長男とする記述もある。母方ではプレクトルードの父がウゴベルト、母が聖エルミーナと伝えられる。
父はまだ年若い彼を、早くからネウストリアの宮宰の地位に就けた。695年、父が据えていたネウストリア宮宰ノルデベルトが没すると、その後任に指名されたとされる。就任の時期を700年より後とする記述もあり、はっきりしない。700年には父からブルゴーニュの宮宰の職も与えられた。年代記の続編は、彼を非常に温和で善良な人物とし、施しに惜しみなく、いつも祈りを欠かさなかったと記している。
最初に、側室とのあいだに庶子テウドアルドが生まれたと伝えられる。708年に兄でシャンパーニュ大公のドロゴが死去すると、グリモアルドは兄の職を受け継ぎ、ブルゴーニュ北部の統治を引き継いだ。シャンパーニュ大公とブルゴーニュ人の大公の地位も継いだとされ、異母弟にあたるカール・マルテルの助けを得て二つの王国を治めたという記述もある。また、ある教会の所有をめぐる訴えの件で名が挙がっており、サン=ドニ修道院への寄進にあたっては、王が行った寄進の証人として名を記された。711年、ピピンはフリースラントの王(公)ラドボードとの戦いに勝って和平を結んだ。ラドボード自身はキリスト教への改宗を拒んだが、娘テウデシンダが洗礼を受けてグリモアルドと結婚することは受け入れた。二人の間にはテウドアルドとアルノルドの2子が生まれたとされる。
714年4月、グリモアルドはリエージュで聖ランベルトゥスの墓の前で祈っているとき、あるいはリエージュからの帰り道に、ランガルという異教徒のフリース人に暗殺された。場所はジュピユへ向かう道だったともいわれ、ランガルは舅ラドボードに仕える者だったとする記述もある。病床の父を見舞いにリエージュへ来ていた折だったとする記述もある。
父ピピンは同じ714年の末に没したが、グリモアルドはそれより少し早く世を去っていた。祖父の意向により、テウドアルドは国王ダゴベルト3世からネウストリアとブルゴーニュの宮宰に任じられたとされる。しかしグリモアルドの息子たちは、父が祖父より先に死んだため、正統な後継者として認められるための争いに巻き込まれた。結局、ピピンの庶子カール・マルテルが父の領地と役職を継いだ。
同じ年に亡くなった人物
- ハッジャージ (714年)
- Ibrahim al-Nakhai (714年没)
- フィリピコス・バルダネス (714年没)
- 殤帝 (唐) (714年没)
- ピピン2世 (714年没)
同じ地域に関係する人物
- ジョン・ブローニング (1926年没)
- ジョゼフ・ジョンゲン (1953年没)
- Georges Putmans (1989年没)
- シャルル・フランソワ・アントワーヌ・モレン (1858年没)
- Leon Jeck (2007年没)