HISTORICAL PERSON · 1829年没

トマス・ヤング

イギリスの物理学者。医学の面で乱視や色の知覚を研究し、光の干渉現象を再発見して波動説を主張した。ヤング率に名を残し、エネルギーの語を最初に用い、ロゼッタ・ストーンなどの解読も試みた。

生涯
1829年没
死亡地
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター / ロンドン)
出生地
イギリス連邦(Milverton)
出典
世界地図
イギリス連邦(シティ・オブ・ウェストミンスター)

伝記

トマス・ヤングは、イギリスの物理学者である。1773年6月13日に生まれ、1829年5月10日に没した。視覚、光、固体力学、エネルギー、生理学、言語、音楽の和声、エジプト学など、多くの分野で重要な貢献をした博学者でもある。ロゼッタ・ストーンなどのエジプトのヒエログリフの解読を試みたことでも知られる。

サマセットのミルヴァートンにあったクエーカーの家に、10人の子の最年長として生まれた。14歳までに、ギリシア語、ラテン語、フランス語、イタリア語、アラビア語、ペルシア語、トルコ語、ヘブライ語など多くの言語を学んだという。1792年にロンドンの聖バーソロミュー病院で医学を学び始め、1794年にエディンバラ大学の医学校へ移り、その翌年にドイツのゲッティンゲンへ行って、1796年に医学博士の学位を得た。1797年にはケンブリッジのエマニュエル・カレッジに入った。同じ年に大叔父リチャード・ブロックルスビーの遺産を相続し、経済的に自立した。1799年には、ロンドンのウェルベック街で医師として開業した。評判を守るため、最初期の学術論文の多くは匿名で出版した。1794年に王立協会フェローに選ばれている。

1801年に王立研究所の自然哲学、主に物理学の教授に任命され、2年間に91回の講義を行った。1802年には王立協会の外国担当幹事となった。1803年に、教授の職が医業の妨げになるのを恐れて辞任した。講義は1807年に『自然哲学講義』として出版され、後の理論を先取りした内容が多い。王立協会より、1800年から複数回ベーカリアン・メダルを、1808年にクルーニアン・メダルを受け、それぞれ記念講演を行った。医学の面では、乱視や色の知覚などを研究した。これは、のちにヤング=ヘルムホルツの三色説と呼ばれる。視覚の研究から光学へ進み、光の干渉現象を再発見して、光の波動説を主張した。弾性体力学の基本定数であるヤング率にその名を残し、エネルギーという用語を最初に用いて、その概念を導入した。

本人の考えでは、多くの業績の中で最も重要なのは、ホイヘンスが『光についての論考』で述べた光の波動説を確立したことである。そのために、光は粒子であるというニュートンの光学の見解を否定しなければならなかった。1803年11月24日、王立協会でこの歴史的な実験について説明し、水槽の水の波で干渉の考えを示した。のちの二重スリット実験の前身にあたるヤングの干渉実験で、光が波として干渉する振る舞いを実証した。1804年の論文では、窓から入る光線の中に約0.85ミリメートルのカードを置いて、影と側面の色の縞模様を観察し、細い帯を置くと縞が消えることから、光が波であることを裏づけた。石鹸や油の膜からの反射や、ニュートンリングなども分析した。その研究の多くは、のちにフレネルによって発展させられた。

音楽では、鍵盤楽器の調律法であるヤング音律を、1799年に考案して翌年発表した。調性の性格がよく表れ、不協和音が最も少ない調律法とされる。1811年に聖ジョージ病院の医師となり、1816年に振り子の長さを測る委員会の書記となった。1818年には経度委員会の書記と航海暦局の責任者になった。1804年にエリザ・マクスウェルと結婚したが、子はなかった。1829年にロンドンで死去し、遺体はケント州ファーンバラの教会の墓地に埋葬された。

同じ年に亡くなった人物

同じ地域に関係する人物