伝記
第2代リヴァプール伯爵ロバート・バンクス・ジェンキンソンは、1770年6月7日に生まれ、1828年12月4日に没したイギリスの政治家、貴族である。トーリー党政権で閣僚職を歴任した後、1812年から1827年まで首相を務めた。政権初期にナポレオン戦争が終結してウィーン体制が築かれ、イギリスは四国同盟に参加しつつ、神聖同盟には加わらなかった。
のちに初代リヴァプール伯爵に叙された父チャールズと、その最初の妻アメリアの間の長男として生まれた。父は当時小ピットの秘書をしており、後に商務庁長官を務めた。サリー州のチャーターハウス校で学び、1786年にオックスフォード大学クライスト・チャーチに入学して、1790年に修士号を得た。父から政治家になるよう道を決められていたといい、1790年にトーリー党所属の庶民院議員に当選した。1796年に父が伯爵に叙されると、父の従属爵位ホークスベリー男爵を儀礼称号として用い、1803年11月には繰上勅書により、父の存命中ながら同男爵を継承して貴族院に列した。1801年から1804年にはアディントン内閣の外務大臣としてアミアンの和約の交渉にあたり、小ピットの第二次内閣、ポートランド公内閣では内務大臣を務めた。1808年12月に父の死で伯爵位を継ぎ、1809年からパーシヴァル内閣の陸軍・植民地大臣となった。
1812年5月にパーシヴァル首相が暗殺されると、トーリー党政権の継続を望む摂政皇太子ジョージの意向で首相に就任し、以後15年の長期に政権を担った。これはウォルポールや小ピットに次ぐ長い在任であった。ナポレオン戦争では半島戦争でビトリアの戦いなどに勝ち、ワーテルローの戦いでフランスの敗北をもって終結した。アメリカとは1812年に英米戦争が勃発し、ホワイトハウスを焼き討ちにしたが、2年後にガン条約で講和し、1818年の条約で国境を定めた。1816年に所得税を廃止して硬貨法を制定し、1821年には金本位制を導入した。
一方、国内では政権への不満が高まった。戦争終結で農業が不況に陥ると、1815年に穀物法を制定したが、労働者の生活費上昇を伴うため地主以外から批判された。復員者が失業者となって社会不安が高まり、勃興した労働者運動に対して、内閣は徹底弾圧の姿勢で臨み、摂政の襲撃事件を受けて人身保護法を一年間停止した。1819年8月16日、マンチェスターの集会に騎兵が突撃して十数人が死亡し、数百人が負傷した「ピータールーの虐殺」では、詳しく調査もせず治安判事や軍を擁護し、集会やデモを禁じる治安六法を制定した。1820年には国王ジョージ4世が王妃キャロラインとの離婚法案を出し、内閣も支持したが、王妃が国民に人気だったため強い批判を浴び、法案は廃案となった。
1822年頃から傾向が変わり、外相カニング、内務大臣ピール、財務大臣ロビンソン、商務庁長官ハスキソンらトーリー党内自由主義派が閣僚となり、関税の引き下げや自由貿易の推進、死刑罪状を減らす刑法改革、団結禁止法の廃止などが行われた。しかし1826年頃からカニングとウェリントン公ら保守派の亀裂が深まり、カトリック解放問題をめぐる閣内対立が激しくなった。リヴァプールは中立の立場で融和に努めたが、1827年2月17日に脳卒中で倒れ、3月に辞表を提出した。後にディズレーリは、仲裁役としての彼を「大平凡人」と評した。1828年にロンドンで死去し、子がなかったため爵位は異母弟が継いだ。
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