HISTORICAL PERSON · 1827年没

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン

ドイツの作曲家・ピアニストで、日本では「楽聖」と呼ばれる。ボン生まれで、1787年にウィーンでモーツァルトを訪ね、1792年にハイドンの弟子として移り住んだ。古典派の集大成でロマン派の先駆とされる。

生涯
1827年没
死亡地
オーストリア共和国(ウィーン)
出生地
ドイツ連邦共和国(ボン)
出典
世界地図
オーストリア共和国(ウィーン)

伝記

ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンは、ドイツの作曲家・ピアニストである。音楽史において極めて重要な作曲家の一人で、日本では「楽聖」とも呼ばれる。その作品は古典派音楽の集大成であり、ロマン派音楽の先駆とされる。1770年12月16日ごろ、ケルン大司教領のボンで、音楽家の父ヨハンと、宮廷料理人の娘である母マリア・マグダレーナの第二子として生まれた。母は7人の子を産んだが成人したのは3人だけで、長男ルートヴィヒ・マリアが生後6日で死去したため、ルートヴィヒが兄弟のなかでは長男となった。一家は、宮廷楽長を務めた同名の祖父の援助で生計を立て、幼いベートーヴェンは祖父を敬愛して、その肖像画を長く自室に飾った。

父ヨハンは宮廷歌手のテノールであったが、無類の酒好きで収入は途絶えがちだった。祖父の死後に相続した遺産も、1784年までにほとんど浪費した。1774年ごろから父は息子の才能をあてにし、虐待ともいえる苛烈な音楽教育を施したため、ベートーヴェンは一時、音楽そのものに強い嫌悪を抱いた。1778年にケルンの演奏会に出演して、満7歳か8歳でデビューした。1782年から、最初の重要な教師とされるネーフェに師事した。ネーフェはバッハの『平均律クラヴィーア曲集』などを弾かせた。同年に作曲した『ドレスラーの行進曲による9つの変奏曲』が、初めての出版作品となった。

1787年春、16歳でウィーンに旅し、憧れていたモーツァルトを訪問した。2週間ほど滞在したころ、母の危篤の報を受けてボンに戻り、母は7月に没した。父のアルコール依存症と鬱病は悪化した。1789年には、家計を支えるため、父の給料の半分を直接自分に渡してほしいと、選帝侯に嘆願している。仕事ができなくなった父に代わって、いくつもの仕事を掛け持ちして家計を支え、弟二人の世話に追われた。この頃、ブロイニング家やマクシミリアン・フランツ、ヴァルトシュタイン伯爵らの助けを得た。1790年12月と1792年7月に、ボンに立ち寄ったハイドンが彼の才能を認め、弟子としてウィーンに来る約束が交わされた。

1792年11月2日に出発し、約1週間かけてウィーンに到着した。以後二度とボンに戻ることはなかった。同年12月に父ヨハンが死去したが、葬儀のために戻ることはなかった。ハイドンは多忙で、作曲を教える時間がほとんどなく、1793年から内緒でヨハン・シェンクに師事し、さらにアルブレヒツベルガーのもとで対位法を学んだ。カール・リヒノフスキー侯爵家は気前よく、イタリア製の弦楽器一式と600フローリンの年金を与えた。名声は徐々に高まり、1796年には同世代の中で最も評価される作曲家となった。

20代後半より持病の難聴が悪化し、28歳のころには最高度の難聴となった。音楽家として聴覚を失う絶望から、1802年に『ハイリゲンシュタットの遺書』をしたためて自殺を考えたが、芸術への情熱で苦悩を乗り越えた。1804年に交響曲第3番を発表したのを皮切りに、その後10年間に中期を代表する作品が書かれ、「傑作の森」と呼ばれる。40歳ごろには全聾となり、腹痛や下痢にも苦しみ、甥カールの後見人としても苦悩して、一時、作曲が停滞した。そうした苦悩の中で、交響曲第9番や『ミサ・ソレムニス』などの大作を書き上げた。

1826年12月に肺炎を患い、黄疸も併発して病状が急激に悪化した。1827年3月23日に遺書をしたため、病床で第10番の交響曲に着手したが、未完のまま、3月26日に肝硬変のため生涯を閉じた。葬儀には2万人もの人々が参列し、シューベルトも列席した。

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