伝記
キオスのイオンは、紀元前5世紀のギリシアの悲劇詩人であり、抒情詩人、哲学者、散文の著作者でもあった人物である。アイスキュロス、ソポクレス、エウリピデスと同時代に生き、生年は紀元前490年から480年ごろとされ、没年は紀元前420年ごろとも421年以前ともいわれる。数多くの作品のうち、現在まで残るのは題名と断片にすぎない。
父はオルトメネスで、「クストスの子」という異名で呼ばれた。これは神話上のイオンの父クストスにちなむあだ名だったらしい。ごく若いころにアテナイへ渡り、貴族派の指導者キモンと交わって、その人物を称える文章を著作に残した。これらはプルタルコスに引用されている。一方でペリクレスには手厳しく、恋のうえで彼と競う間柄だったとも伝えられる。紀元前460年代にはすでにアテナイの政治と芸術の上層に出入りしており、ラオメドンの宴席にキモンとともに居合わせた話も伝わる。またイスミア競技祭でアイスキュロスと知り合ったとされる。ただし悲劇作者として名乗り出たのは、アイスキュロスの死後であった。紀元前440年、サモス遠征の指揮官となったソポクレスとキオスで宴をともにしたことは、イオン自身の記述から知られる。
最初の悲劇は紀元前452年ごろ、もしくは紀元前450年ごろに上演されたとされる。紀元前429年から428年にかけてのディオニュシア祭では、エウリピデスの『ヒッポリュトス』(第二作)とソポクレスの子イオポンを相手に競い、三番手に終わった。勝利が伝えられるのは一度だけで、このとき酒神讃歌と悲劇の双方で賞を得たため、アテナイの全市民にキオス産のぶどう酒を一壺ずつ贈ったという。この話から、かなりの資産家だったと見られている。ストラボンはキオスの著名人の一人に彼を挙げている。没年については、紀元前421年に上演されたアリストパネスの『平和』に言及があることから、その前に亡くなったとされる。同作では彼の抒情詩の一節が引かれ、「明けの明星」と呼ばれている。トゥキュディデスの記す、紀元前412年にスパルタの総督に殺されたイオンの子テュデウスは、彼の子と考えられている。
悲劇の数は12、30、40などと諸説ある。題名と断片が残るのは、『アガメムノン』『アルクメネ』『アルゴスの人々』『エウリュティダイ』『ラエルテス』『大いなる劇』『オンパレ』『ポイニクス、またはカイネウス』『第二のポイニクス』『見張りたち』『テウクロス』の11作で、『オンパレ』は断片が最も多い半獣神劇である。偽ロンギノスは、その文体を小さな洗練に富み大胆さに欠けると評し、『オイディプス』一作にイオンの全悲劇を合わせても及ばないとまで述べた。それでも優雅な機知によって大いに称賛され、アルケシラオス、シノペのバトン、ディデュモス、アリスタルコスらが注釈を書いた。悲劇のほか、喜劇、エピグラム、讃歌、哀歌なども作り、哀歌の一部はギリシア詞華集に残る。
散文では、イオニア方言でヘロドトスにならったらしい歴史書『キオス創建記』があり、パウサニアスが引く『叙述』と同じものとみられる。また『宇宙論』は、ピュタゴラス派の傾向をもつ哲学書『三つ組』と同一と思われ、万物は三つであり、知性と力と運の三つ組が個々のものの価値を成すという趣旨の断片が伝わる。旅行記かキオスを訪れた著名人の記録とされる『滞在記』は、アイスキュロスやソポクレス、ペリクレスらとの出会いを伝え、彼の生涯を知る手がかりとなっている。前ソクラテス期の哲学者にも数えられている。
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