HISTORICAL PERSON · 1823年没

ピウス7世 (ローマ教皇)

第251代ローマ教皇。1801年にナポレオンと折衝して関係を修復したが、後に対立して破門し、1809年に監禁された。1814年にローマへ戻り、ウィーン会議で教皇領の復活が認められた。

生涯
1823年没
死亡地
イタリア共和国(ローマ県 / ローマ)
出生地
イタリア共和国(チェゼーナ)
出典
世界地図
イタリア共和国(ローマ県)

伝記

ピウス7世は、第251代のローマ教皇で、1800年3月14日から1823年8月20日の死まで在位した。本名はバルナバ・ニッコロ・マリア・ルイージ・キアラモンティといい、1742年8月14日にチェゼーナで生まれた。ナポレオンと激しく対立して幽閉されたが、結果的に、ヨーロッパの外交界で教皇庁の地位を高めることになった。

教皇領のチェゼーナで、伯爵スキピオーネ・キアラモンティと、侯爵の娘ジョヴァンナ・コロナート・ギーニの子として、貴族の家に生まれた。家は貴族ではあったが中流で、兄弟とともにラヴェンナの貴族学寮で学んだ。14歳でベネディクト会に入ることを決め、1756年10月2日にチェゼーナの修道院に修練士として入り、2年後の8月20日に「グレゴリウス」の名で終生の誓願を立てた。その後、ローマのサン・アンセルモ学院で学び、1765年9月21日に司祭に叙階され、まもなく神学の博士号を得た。

1766年からパルマの修道院で教えた。1772年に「講師」の学位を得て、神学と教会法を教えることを許され、サン・アンセルモ学院に戻って1781年まで教授と司書を務めた。1773年には、母方の親戚にあたるアンジェロ・ブラスキ枢機卿の聴罪司祭になった。ブラスキは1775年にピウス6世として教皇に選ばれ、友人に昇進を重ねた。34歳でサン・パオロ・フオーリ・レ・ムーラ修道院の院長に、1782年12月にはティヴォリの司教に任じられ、1785年にはサン・カリスト教会の司祭枢機卿に、同年6月にイモラの司教に任命された。

イモラでは文化を愛する人として記憶され、図書館は開かれ、そこには『百科全書』さえあったという。1797年のクリスマスの説教では、民主的な統治と善きカトリック信者であることは矛盾しないと述べた。1796年にフランスの革命軍がイモラに侵入したときには、穏健な方針をとって、住民の災いを避けた。

1799年にピウス6世が没すると、3か月にわたって紛糾したコンクラーヴェの末にキアラモンティが選ばれ、友人であった前任者の名を継いで、ピウス7世を名乗った。まず取り組んだのは、カトリック教会と世俗国家の関係の修復であった。当時は反教会的な雰囲気が最高潮に達していた。そこでフランスの第一執政ナポレオンと折衝を始め、1801年に政教条約を成立させ、フランス革命以来断絶していた政府と教会の関係を公式に修復した。外交面の成功には、右腕となった枢機卿エルコレ・コンサルヴィの働きが大きかった。

1804年にナポレオンの戴冠式に招かれてフランスを訪れたが、政府が教会を支配する仕組みが確立していることに愕然とし、教皇の権威が政治的に利用される現実に直面した。ダヴィッドの『ナポレオンの戴冠』で、ナポレオンの後ろに座るピウス7世の渋い表情は、このときの心情をよく表している。関係は急速に悪化し、ナポレオンが教皇領を接収すると、教皇は彼を破門した。1809年、ナポレオンはピウス7世を北イタリアのサヴォーナに監禁した。1814年にナポレオンが退位すると、ようやくローマへ戻った教皇を、市民は歓呼して迎えた。

ウィーン会議では教皇領の復活が認められた。23年の在位で、1814年のイエズス会の復興、ロシアやプロイセンとの政教条約の締結など、多くの成果を残した。ナポレオンの没落後は、一族をローマにかくまったり、臨終のナポレオンのために、セント・ヘレナ島に司祭を派遣したりする粋な一面も見せた。

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