伝記
モニカ・ヴィッティは、イタリアの女優である。モニカ・ビッティとも表記される。1931年11月3日、ローマにマリア・ルイザ・チェチャレッリとして生まれた。父アンジェロはローマ出身で、対外貿易の検査官を務めており、母アデーレはボローニャの出身だった。父の仕事のため、少女期の8年間をメッシーナで過ごした。幼い頃は寒がりで何枚も重ね着をしたため、家族に愛称で呼ばれたといい、その愛称は後年の自伝的な著書『七枚のスカート』の題名にもなった。やがて一家はナポリに移り、1943年の空襲のさなかに、少女は演劇への情熱に目覚めた。防空壕の中で兄のジョルジョと人形劇を演じ、避難した人々を楽しませたと本人は語っている。家が破壊されたのち、一家はローマへ移った。
家族の意に逆らわないよう、最初は秘書の勉強を始めたが、やがてローマの国立演劇アカデミーに入り、シェイクスピアやモリエールからマキャヴェッリ、イヨネスコ、ブレヒトまで、さまざまな作品を演じて、短いながら実りある舞台女優の経験を積んだ。セルジョ・トファーノのもとでの喜劇の舞台は強い印象を残し、のちの喜劇女優としての持ち味につながったとされる。トファーノの助言で芸名を考え、亡くした母の旧姓ヴィッティリアの前半を取って姓とし、本で出会って響きのよいと感じた名モニカを組み合わせて、モニカ・ヴィッティとした。1955年にはモリエールの『守銭奴』のマリアーナ役で舞台に立ち、翌年にはオフィーリアを演じた。その後は舞台女優としてヨーロッパを回った。
映画では、エドアルド・アントン監督の喜劇映画で初めて銀幕に現れた。年は1954年とも1955年ともいわれ、この作品で新人女優賞を得たとも伝えられる。いくつかの喜劇で脇役を務めたのち、ミケランジェロ・アントニオーニに見いだされた。アントニオーニはジョルジュ・フェドーの芝居を演じる彼女に目を留め、自作『さすらい』で女優ドリアン・グレイの声の吹き替えを頼んだという。1957年にはその劇団に加わり、同作に端役で出演した。以後、『情事』(1960年)、『夜』(1961年)、『太陽はひとりぼっち』(1962年)、『赤い砂漠』(1964年)とアントニオーニ作品の常連となり、世界的に知られるようになった。『情事』ではクラウディア、『夜』ではヴァレンティーナ、『太陽はひとりぼっち』ではヴィットーリア、『赤い砂漠』ではジュリアーナを演じ、この四作は「コミュニケーション不能の四部作」と呼ばれる。1960年代を通して、彼女はアントニオーニと公私にわたるパートナーであり、1968年にはプロポーズされたが、結婚には至らなかった。
その後は喜劇にも活躍の場を広げ、イタリア式喜劇でアルベルト・ソルディ、ウーゴ・トニャッツィ、ヴィットリオ・ガスマン、マルチェロ・マストロヤンニら男優と渡り合った。ハスキーな声と機知に富んだ話しぶりが持ち味だった。1974年には出演作でダヴィッド・ディ・ドナテッロ賞の女優賞を受け、この賞は通算五度に及んだ。1990年には自ら出演と監督を兼ねた作品も手がけた。1995年には第52回ヴェネツィア国際映画祭で栄誉金獅子賞を受けた。2000年に脚本家で映画監督のロベルト・ルッソと結婚した。2011年には、アルツハイマー病のため、この15年ほど公の場に姿を見せていなかったことが公表された。2022年2月2日、生まれたローマで死去した。
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