伝記
バトバヤン(バトバヤン・オブ・ブルガリア)は、7世紀に黒海北方の草原で活動したブルガール人の指導者である。ドゥロ氏族の出身で、ブルガール人の首長クブラトの長男とされ、バヤン、ボヤン、ベズメルなどの名でも呼ばれる。没年は690年とされる。
クブラトの死の時期は、660年、665年、あるいは641年とする説があり、一定しない。そのためバトバヤンの統治がいつ始まったかもはっきりしない。ブルガール首長の名を並べた古い名簿には、クブラトの後継者としてベズメルという名が3年間統治したと記されており、これを根拠にバトバヤンをベズメルと同一人物とみる学説がある。ただし、この同一視は現在では退けられているとする説明もある。また、ステヴン・ランシマンは、ベズメルこそクブラトの唯一の息子で、五人の息子と伝えられる者たちは実は孫だったとみている。
バトバヤンには四人の弟がいたとされ、アスパルフやコトラグの名が挙がる。ただし、バトバヤンが単独で統治したのか、弟たちと共同で統治したのかは定かでない。クブラトの没後、一族の支配する大ブルガリアはハザール人の侵攻を受けた。ブルガール人の多くは弟たちに率いられて、西や北へ移り住んだ。ビザンツの年代記作者テオファネスは、年長の息子バトバヤンが父の願いに従って祖先の地にとどまったと記し、さらにハザールが黒海に至るまでの地を押さえ、バトバヤンを従属させて、その時代まで貢納を受けていると伝えている。
スペイン語圏の説明では、668年にバトバヤンは親族のコトラグと争って、クリミアから追われたともいう。同じ年にハザールのカガンと結んだ条約によって、バトバヤンとその妹フバが捕らわれの身になったとも語られる。この条約でドン川とウラル山脈の間の草原がハザールの手に落ちたという。こうした伝承は西のブルガール人の間に、ふたりの犠牲を偲んで戦いにマルテニツァを身につける習わしを生んだとされる。ただし、これは伝承として語られるものである。
バトバヤンは、結局ハザールの可汗に従う者として自らの民を治めることになったとされる。後のビザンツの年代記には、その子孫が暮らす地を指して「内ブルガリア」と呼ぶ例がある。10世紀になっても、ビザンツやルーシの年代記は、この地域に黒いブルガール人がいると記している。バトバヤンの民は現代のバルカル人の民族形成に重要な役割を果たしたとする見方もあるが、その一方、ドナウ流域のブルガール人の民族形成にはほとんど影響しなかったともされる。
同じ年に亡くなった人物
- Julian of Toledo (690年)
- アイギナのパウロス (690年没)
- Al-Bara' ibn Azib (690年)
- アルザス公アダルリック (690年)
- タルソスのテオドルス (690年没)
同じ地域に関係する人物
- ドミトリー・イワノフスキー (1920年没)
- マトヴェーイ・プラートフ (1818年没)
- パーヴェル・レンネンカンプ (1918年没)
- Valentin Nikolayev (2004年没)
- アレクサンドル・ペチェルスキー (1990年没)