伝記
ジョゼフ・マリー・ド・メーストルは、1753年4月1日に生まれ、1821年2月26日に没したサヴォワ出身のカトリック思想家で、外交官、王党派、保守主義者、反革命家である。軍人・作家のグザヴィエ・ド・メーストルは弟にあたる。
サルデーニャ王国領サヴォワのシャンベリ(現在はフランス領)に、サヴォワ上院議長フランソワ・グザヴィエ・ド・メーストル伯爵の長男として生まれた。メーストル家はラングドックの出身で、17世紀初めに二つの家系に分かれ、一方がピエモンテに移住し、ジョゼフはその系統の出である。1774年にトリノ大学の法学部を卒業して、サヴォワ上院の検察官の職に就いた。シャンベリに戻るとすぐフリーメイソンのロッジに加入し、サン=マルタンの神秘的な考えに影響された。この神秘主義的傾向は、後の『サンクト・ペテルブルク対話篇』に明確に表れる。革命までは自由主義的思想の持ち主で、彼が明確に反革命の立場を採ってからも、フランス宮廷の人々はなかなか彼を信用しなかったといわれる。多くの言語を解し、聖書、古典、中世神学から啓蒙思想までヨーロッパ思想全体に通暁した碩学で、敬虔なカトリック教徒だった。
1786年にモーラン嬢と結婚し、三人の子を儲けた。1787年に父の後を継いで上院議員となった。1789年のフランス革命勃発まで、人生は平穏だった。革命の最初期には好意的だったが、すぐに反対の立場を取った。1792年にフランス共和国軍がサヴォワを侵略すると、スイスのローザンヌに亡命し、サルデーニャ王の公使の職に就いた。このときから、革命思想に反対する著作を次々と生んだ。1796年に出版された『フランスについての考察』は、亡命貴族など反革命派の心をつかみ、名前をヨーロッパ中に知らしめた。
1802年、サルデーニャ王の代理としてロシアのサンクトペテルブルクに赴任した。当地で主著の『サンクト・ペテルブルク対話篇』を書き、『教皇』『政体の創造原理』などもものした。サルデーニャ王がナポレオンの犠牲となってトリノを奪われ、サルデーニャ島に避難していたため、つましい生活を余儀なくされたが、機知や社交的な魅力でロシア宮廷に強い印象を与え、皇帝アレクサンドル1世も一目置いた。1817年に帰国したが、その原因は、イエズス会士を支援し、何人かのロシア貴族をカトリックに改宗させたため皇帝の不興を買ったからともいわれる。革命以来20年ぶりに家族と再会し、亡くなるまでピエモンテ=サルデーニャの司法長官として王に仕えた。
思想は、世襲君主政や教会、偏見や迷信の権威を、それが合理的だからではなく、非合理的だからこそ擁護する、徹底した反合理主義・反啓蒙主義であり、ヴォルテールとルソーを激しく罵った。理性は権威の下に統制されない限り悪に向かうと考え、自律的理性が社会の紐帯を破壊すると見た。キリスト教の原罪を非常に重視し、「原罪は全てを説明する」と述べ、アウグスティヌスの影響を強く受けた。フランス革命は、理神論や無神論に近づいたフランスへの神の罰であり、ルイ16世らの処刑は、自己犠牲によってフランスを救うものだと解釈した。
死去したとき、著作の大部分は未公刊で、独特の思想家という評価はほとんどなかった。息子ロドルフらが全集を編集し出版したのは、1850年代から1860年代であり、以後、熱烈な読者を獲得していった。サン=シモンやコント、モーラスらに影響を与え、ボードレールは彼から「どのように考えるか」を教わったと語った。一方スタンダールは「死刑執行人の友」と呼んだ。
同じ年に亡くなった人物
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