HISTORICAL PERSON · 1820年没

ジョゼフ・バンクス

イギリスの博物学者・植物学者で、王立協会会長。クックの第一回航海に同行して南太平洋の博物学的知見を西欧にもたらし、ユーカリやアカシアを初めて紹介した。植物属バンクシアは彼の名に因む。

生涯
1820年没
死亡地
イギリス連邦(ハウンズロー区 / アイズルワース)
出生地
イギリス連邦(ソーホー)
出典
世界地図
イギリス連邦(ハウンズロー区)

伝記

ジョゼフ・バンクスは、イギリスの博物学者・植物学者で、準男爵、王立協会会長を務めた。ジェームズ・クックの第一回航海(1768年から1771年)に同行し、南太平洋地域の博物学的知見を西欧にもたらした。1743年2月2日(ユリウス暦)、庶民院議員で大地主の父と、妻サラの長男として、ロンドンのアーガイル・ストリートに生まれた。父は祖父と同様に医者でもあり、裕福な家庭であった。ハロー校からイートン・カレッジに転校したが、17歳で天然痘の療養をきっかけに退学した。1760年にオックスフォードのクライスト・チャーチに入ったが、講義にはほとんど出席せず、博物学の勉強に精を出した。1761年に父が死去し、21歳で巨額の遺産を相続した。大学には植物学の講義がなかったため、ケンブリッジの植物学者イズラエル・ライオンズに私費を提供して個人講義を受けた。

チェルシーの自宅から大英博物館などに足しげく通い、ダニエル・ソランダーら多くの科学者と交わり、ソランダーを通してリンネの知遇を得た。1766年に王立協会のフェローに推挙され、同年、学友とともにニューファンドランド・ラブラドールへ自然史調査に向かった。収集した動植物をリンネの分類体系に従って記載した論文を出版した。

その後すぐ、王立協会と王立海軍が計画したエンデバー号による南太平洋探検航海に、ソランダー、画家シドニー・パーキンソンらとともに科学班として参加した。事業の主要な推進者である海軍大臣サンドウィッチ伯の幼なじみで、私費で1万ポンドを拠出している。ブラジルでブーゲンビリアを最初に科学的に記載し、多くの南米の植物を採集した。タヒチとニュージーランドを経てオーストラリア東岸に達し、ボタニー湾とエンデバー川河口に上陸した。エンデバー号がグレートバリアリーフで大破し、修理に7週間かかる間、バンクスらは大量の植物標本を集めた。ボタニー(植物学)湾の名は、同地で採集した珍しい植物を記念した命名である。

1771年2月にロンドンへ帰ると、一夜にして時代の寵児となった。クックの第二回航海にも参加するつもりで、召使いやホルン奏者を含む一行17名のために調査船レゾリューション号の改築を申請したが、改築した船は安定を失い、試験航海で転覆しかけ、元の姿に戻された。憤激して降りたバンクスは、1772年7月にソランダーとアイスランドへ赴き、多くの植物を採集した。帰国後は、パーキンソンの約1500枚の絵などをもとに『植物図譜』の制作に取りかかったが、生前に完成せず、約200年経った1980年から81年に、大英自然史博物館が標本と銅版を使って100部だけ製作した。

1778年11月に王立協会の会長に選ばれ、死ぬまで41年間務めた。1779年にドロシア・ヒュージセンと結婚し、ソーホー・スクエアに終の住処を構えた。1781年に準男爵となった。国王ジョージ3世の助言者として、キュー植物園の発展に尽力し、世界各地に探検家と植物学者を派遣して植物を集め、世界屈指の植物園に育てた。オーストラリアには終生強い思い入れがあり、1779年に下院で、囚人の受け入れ先はボタニー湾が最適だと証言し、入植地の最も強力な擁護者となった。メリノ羊の導入を最初に提案したのも彼で、5オーストラリア・ドル紙幣にも肖像が使われた。晩年は痛風に苦しみ、1805年以降は歩行の自由を失ったが、意気軒昂であった。1820年6月19日、77歳で没した。

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