HISTORICAL PERSON · 1789年没

アブデュルハミト1世

オスマン帝国の第27代皇帝。即位後まもなく第一次露土戦争に敗れ、キュチュク・カイナルジ条約でロシアに領土を割譲した。即位前は長く幽閉されていた。

生涯
1789年没
死亡地
トルコ共和国(イスタンブール県 / コンスタンティノープル)
出生地
トルコ共和国(トプカプ宮殿)
出典
世界地図
トルコ共和国(イスタンブール県)

伝記

アブデュルハミト1世は、オスマン帝国の第27代皇帝である。1725年3月20日に生まれ、1774年1月21日から1789年4月7日の没年まで在位した。第23代皇帝アフメト3世の子で、ムスタファ3世の弟にあたり、子にムスタファ4世とマフムト2世がいる。信心深く平和を好んだ皇帝で、破産状態の帝国を受け継いで、軍事の改革を目指した。

イスタンブールで、アフメト3世と、シェルミ・カドゥンとの間に生まれた。父は1730年に失脚し、以後、アブデュルハミトは皇位継承の可能性がある者の慣例として、従兄や兄によって、トプカプ宮殿に37年間も幽閉された。幽閉といっても不自由は少なかったが、その間、母から歴史と書道を教わった。1767年にカフェスから解放され、1771年に兄のバヤズィト皇子が死去してからは、皇太子となった。長い幽閉のため、国事には無関心で、側近の思惑に左右されやすかったともいう。

1774年1月21日、兄ムスタファ3世の死の日に、宮殿での儀式を経て皇帝に即位した。国庫は窮乏し、イェニチェリへの恒例の祝儀さえ出せなかった。新帝は、国庫には祝儀はもはやないと、兵士たちに告げたという。大宰相に宛てて、ロシアとの戦争を続けるよう命じたが、兄の治世中の1768年から続く第一次露土戦争に敗れ、同年7月にキュチュク・カイナルジ条約を結んだ。ドンとドニエプルの河口、アゾフ海沿岸をロシアに割譲し、ロシアの黒海での自由航行を認め、さらに正教徒の保護権まで与えざるを得なかった。クリミア・ハン国は独立し、1779年にアクナルヴァク条約が結ばれて一時的にロシアの脅威は去ったが、1784年にはロシアに併合された。

即位後は、軍事と領土の穴埋めのため、イェニチェリの装備を更新し、新たな砲兵隊を作り、イスタンブールに工科学校を設けた。エジプト、シリア、ギリシャ、イラクでの支配力の強化も図り、イラクでは失敗したが、エジプトではアリー・パシャの独立宣言以来弱まっていた支配力を強めた。シリアやペロポネソス半島の反乱も鎮圧した。1775年にはカリーム・ハーンのザンド朝がイラクに侵攻してバスラを占領したが、1779年に奪還した。治世中、1780年と1782年にイスタンブールで大火があった。1782年の火災では二万軒以上が焼け、アブデュルハミト自らが消防隊を指揮したため、ヴェリ(聖人)と呼ばれたという。

1787年から再びロシアと戦争になり、オーストリアも宣戦して、オスマン側は準備が不十分だった。当初は優勢だったが、1788年12月6日にウージーが落ち、住民が虐殺された。知らせを聞いた皇帝は卒中を起こし、これが死につながったとされる。1789年4月7日に崩御し、甥のセリム3世が跡を継いだ。噴水、マドラサ、小学校、図書館など多くの建築をイスタンブールに残した。家族と過ごす時間が長く、夏には妻や子と別荘で過ごし、コーランをよく読んだという。即位後はイスタンブールの各地区をたびたび訪れ、勅令を出し、商人と人々との問題に耳を傾けた。多くの領土を失ったが、評価は低くなく、勤勉で思いやりのある性格で知られる。

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