HISTORICAL PERSON · 676年没

クローヴィス3世

アウストラシア王(675-676年)。テウデリク3世かクローヴィス2世の子とされるが、貴族らはクロタール3世の嫡出子と主張した。

生涯
676年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

クローヴィス3世は、メロヴィング朝のフランク人の王で、アウストラシア王として675年から676年にかけて在位した。生年は不明だが670年ごろの生まれとされ、即位したときは五歳ほどの子どもだったという。治世があまりに短く、しかも異論があったため、王位の僭称者にすぎないと見なされることもある。クローヴィス3世と数えず、のちのクローヴィス4世を3世と呼ぶ場合さえある。その治世を伝える同時代の史料は、『レオデガリウスの受難』だけである。

675年にキルデリク2世が暗殺されると、アウストラシアとネウストリアの二つの王国は、別々の王位請求者を受け入れた。ネウストリアでは、オータン司教レオデガリウスの影響のもと、キルデリクの弟テウデリク3世が王に立てられた。一方アウストラシアでは、前の宮宰エブロインが、宮宰ウルフォアルドの支配に反対する貴族の一派の支持を得て、クローヴィスを王に立てた。エブロインは673年に宮宰を退けられていたが、幽閉から脱していたとされる。

エブロインとその同盟者たちは、クローヴィスはキルデリクの兄クロタール3世の子だと主張した。ところが『レオデガリウスの受難』は、これを偽りだと述べている。クロタール3世は二十歳過ぎで亡くなっており、子がいても不思議ではなく、祖父クローヴィス2世にちなんだ名も、メロヴィング家の長男に多いものだった。しかし677年にテウデリク3世に息子が生まれた際、その子にクローヴィス(のちのクローヴィス4世)と名づけたことから、クロタール3世にその名の子はいなかったという『受難』の記述のほうが正しいと考えられている。このため父については、テウデリク3世かクローヴィス2世の子であろうといわれ、出自は確かでない。

エブロインは、軍を集め、王の名による有効な命令を出すために、正統なメロヴィング家の王を必要としていた。軍を起こしたエブロインは、675年の秋に王国の北西部へ進み、王の財宝を手に入れた。財宝を押さえてしまうと、クローヴィスはもう必要ではなくなり、彼を見捨ててテウデリク3世を支持すると宣言した。この見返りに、ネウストリアの宮宰の地位を得たとする説もある。ただエブロインにもネウストリアとの合一にも反対するアウストラシア人はテウデリクを認めず、676年の4月2日から6月30日のあいだに、ダゴベルト2世を王に立てた。クローヴィスは退けられ、おそらく修道院に送られたといわれるが、その最期は伝わらず、没年も不明である。

この短い治世のものと考えられる貨幣がある。1956年にジャン・ラフォーリが唱えた説で、エゴン・フェルダーやフィリップ・グリアソンも受け入れている。「クローヴィス王」の名と、造幣者エボリノの名を刻んだ金のトレミシス貨は、おそらくクローヴィス3世のものとされる。マルセイユの後期の金貨にも、この王のものとみられるものがある。

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