伝記
マルキ・ド・サド(サド侯爵)は、1740年6月2日に生まれ、1814年12月2日に没したフランス革命期の貴族で小説家である。マルキは侯爵の意で、正式な名はドナシアン・アルフォンス・フランソワ・ド・サドという。その作品は暴力的な描写を含み、道徳や宗教や法の制約を受けない自由と、個人の肉体的快楽を最も高く追求することを原則としていた。虐待と放蕩の罪で、パリの刑務所や精神病院に入れられ、作品のほとんどは獄中で書かれた。しばらくは正当に評価されなかったが、現在は高い評価を受けている。サディズムという言葉は、彼の名に由来する。
パリにあったコンデ公の旧邸で、貴族の父と、コンデ公爵夫人の女官でリシュリューの親族にあたるマリー・エレオノール・ド・マイエ・ド・カルマンの間に生まれた。伯父のジャック・ド・サド修道士に教育を受け、のちにイエズス会のリセに学んだが、軍人を志して七年戦争に従軍し、騎兵連隊の大佐として戦った。サド家は伯爵から侯爵となり、祖父が最初の侯爵であった。1763年に戦争から帰還すると、裕福な治安判事の娘に求婚したが、父に拒絶された。代わりに、その姉ルネ・ペラジー・コルディエ・ド・ローネー・ド・モントルイユとの結婚が取り決められた。結婚後、二人の息子と一人の娘が生まれた。1766年には、プロヴァンスのラコストにある自分の城に、私用の劇場を建設した。父は1767年1月に亡くなった。
サドは、復活祭の日に物乞いをしていた未亡人をだまして暴行した事件(アルクイユ事件)や、マルセイユの娼館での事件などの犯罪行為を犯したとされ、マルセイユの件では毒殺未遂などの罪で死刑判決が出された。1778年に収監され、1784年にバスティーユ牢獄に移された。獄中では精力的に長大な小説をいくつも執筆した。リベラルな思想に裏打ちされた背徳的な思弁小説で、エロティシズムや徹底した無神論、キリスト教の権威を超えた思想を描いた。『ソドム百二十日あるいは淫蕩学校』をはじめ、淫猥で残酷な描写が多いため、19世紀には禁書扱いとされ、ごく限られた人しか読めなかった。
革命直前の1789年7月2日には、バスティーユから「彼らはここで囚人を殺している!」と叫び、革命のきっかけの一つを作ったと言われる。まもなくシャラントン精神病院に移され、1790年に解放された。当初は共和政を支持したが、財産への侵害が行われると、次第に反共和政的になり、1793年12月5日から1年間は投獄された。1801年、ナポレオンは、匿名で出版されていた『ジュスティーヌあるいは美徳の不幸』と『ジュリエット物語あるいは悪徳の栄え』の著者を投獄するよう命じた。サドは裁判なしに投獄され、1803年にシャラントン精神病院に入れられて、1814年に没するまでそこで暮らした。
作品は、特に暴力的な描写において文法的に破綻したところが多いが、20世紀に入って、シュルレアリストたちによって再評価され、全集の出版が行われた。日本には、澁澤龍彦らによって紹介され、澁澤の『悪徳の栄え』の翻訳出版をめぐる悪徳の栄え事件は、澁澤側の有罪(罰金刑)で終わった。オーストリアの精神医学者クラフト=エビングは、サドの名にちなんで「サディズム」を、相手に精神的・身体的な苦痛を与えることで性的な満足を得ることと定義した。
同じ年に亡くなった人物
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