HISTORICAL PERSON · 669年没

Mezezius

アルメニア貴族出身のビザンツ将軍。668年から669年にかけてシチリアで皇帝位を簒奪した。

生涯
669年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

ミジジオス(メゼジウス、ミゼジウスとも)は、7世紀のビザンツ帝国に仕えたアルメニア系の貴族で、将軍である。668年から669年にかけて、シチリアで皇帝を僭称したことで知られる。フランス語圏の記述では、本来の名はアルメニア語のムジェジ・グヌニだった可能性が高いともされる。

ビザンツの年代記作者によれば、ミジジオスはアルメニア人で、非常に容姿が整って美しい人物だったという。キリル・トゥマノフは、侯家にあたるグヌニ家の出身とする。教皇グレゴリウス2世が皇帝レオン3世に宛てたとされる書簡では、オプシキオンのコメスとされている。ただしオプシキオンは当時まだ属州ではなく、皇帝直属の親衛隊兼野戦軍だった。この肩書きは今日では疑問視されており、教皇の真意は、皇帝コンスタンス2世の近衛の隊長だったということではないかとも考えられている。12世紀のシリア語年代記家ミカエルや、いわゆる『1234年の年代記』は、パトリキオスの位を与えている。

663年、コンスタンス2世は西方の諸州とシチリアをアラブの侵攻から守るため、シチリアのシラクサに都を置き、東方の属州の統治を息子のコンスタンティノス4世に任せた。ミジジオスはこの皇帝のイタリアとシチリアへの遠征に従った貴族のひとりである。シチリアに重い財政負担がかかり、土地の不満が高まっていた。668年、コンスタンス2世は入浴中にシラクサで殺害された。理由は不明で、侍従のひとりが水をかける容器で打ったという。教皇の書簡によれば、コンスタンス2世を単意論を支持する異端者とみなしたシチリアの司教たちが殺害を命じたとされる。近年の研究者のなかには、アラブによるコンスタンティノポリス攻撃が迫り、都のエリートが皇帝を除こうとしたことを重く見る者もいる。

皇帝が殺されると、ミジジオスは本人の意に反して皇帝に推されたといわれる。教皇の書簡では、シチリアの司教たちが反乱へ駆り立てたとされる。ただし、この政変へのかかわりはきわめて不確かで、証言は証聖者テオファネスだけである。リッカルド・マイサーノは、当時アルメニアがビザンツとアラブの争いの場で、アルメニア人の帰属が両陣営の間で揺れていたことから、ミジジオスはアラブ側の工作の道具だったと推測している。ミジジオスは土地の人々や帝国軍の支持を集められなかったとされる。反乱は約7か月続いて鎮圧されたと、ミカエルはほのめかす。鎮圧の経緯については説が分かれる。テオファネスは、コンスタンティノス4世が自らシチリアへ遠征し、ミジジオスと父帝の暗殺者たちを処刑したと伝える。『教皇の書』は、イタリアとアフリカ総督領から来た忠誠派の軍が反乱を鎮め、ミジジオスを処刑して、切った首をコンスタンティノポリスへ送ったと記す。コンスタンティノポリスが脅かされていたなら、皇帝の遠征はありそうにないとする見方もある。

ミジジオスにはヨハネという息子がいた。ミカエルによれば、ヨハネは父の処刑後もシチリアに残り、678年ごろにコンスタンティノス4世に対して反乱を起こした。これも7か月続いたが、皇帝がシチリアに来て、ヨハネを破って殺したという。この息子の存在は、父の反乱と息子の反乱の混同を説明するかもしれない。ミジジオスのものとされる貨幣は、コンスタンティノス4世が採用した新しい図像の様式を引き継いでいる。そのため、実際には息子が鋳造させたものとする見方もある。

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