HISTORICAL PERSON · 669年没

藤原鎌足

飛鳥時代の貴族・政治家で、藤原氏の始祖。中大兄皇子らと蘇我入鹿を暗殺して蘇我蝦夷を自殺に追いやり(乙巳の変)、大化の改新の中心人物となった。臨終に際し大織冠と藤原姓を賜り、翌日に没した。

生涯
669年没
死亡地
—
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

藤原鎌足は、飛鳥時代の貴族・政治家で、日本史上最大の氏族である藤原氏の始祖である。中臣御食子の子で、母は大伴智仙娘といい、大化の改新の中心人物として、改新後も中大兄皇子(のちの天智天皇)の腹心として活躍した。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。字は仲郎。生前は中臣氏の一族として中臣鎌足と名乗り、初めは鎌子と称したとされる。臨終に際して冠位の最上位である大織冠とともに藤原の姓を賜ったので、藤原氏の祖として呼ぶときに藤原鎌足の名を用いる。なお、鎌子から鎌足への改名は後世の解釈で、本来の名は「鎌」の一文字であり、「子」や「足」は敬称の語尾だとする青木和夫の研究がある。

出生地は『藤氏家伝』では大和国高市郡藤原(現在の奈良県橿原市)とされるが、大和国大原や常陸国鹿島とする説もある。鎌足は長子とされるが、字の「仲郎」から、史料に見えない兄がいた可能性を指摘する説もある。『日本書紀』によると、644年(皇極天皇3年)、中臣氏の家業である祭官に就くことを求められたが固辞し、摂津国三島の別邸に退いた。やがて蘇我氏による体制を倒す意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(のちの孝徳天皇)に近づき、次に中大兄皇子に接近した。蘇我一族内部の対立にも乗じて、蘇我倉山田石川麻呂を味方に引き入れた。

645年、中大兄皇子や石川麻呂らと協力し、飛鳥板蓋宮で、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺し、入鹿の父の蝦夷を自殺に追い込んだ。乙巳の変である。この功績で内臣に任じられ、軍事の指揮権を握った。ただし内臣は寵臣・参謀を意味し、正式な官職ではない。外国からの使節への対応にもあたり、外交の責任者でもあったとみられる。その後は、大化の改新を進めようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣阿倍倉梯麻呂や右大臣の石川麻呂と対立した。647年(大化3年)の新しい冠位制度では大錦冠を授かった。649年(大化5年)に倉梯麻呂が没し、石川麻呂が失脚すると勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠に昇った。

669年(天智天皇8年)10月、山科の御猟場へ狩りに出かけ、馬上から転落して背中を強く打った。見舞いに訪れた天智天皇に「生きては軍国に務無し」と語ったという。天智天皇から大織冠(大識冠とも記される)を授けられ、内大臣に任じられて藤原の姓を賜ったが、その翌日に亡くなった。享年56。墓は初め摂津国島下郡の阿威山に営まれ、のちに大和国の多武峯に改葬されたと伝えられる。多武峯は談山神社となり、926年には談山権現の神号が贈られた。のちには後花園上皇から談山大明神の神号と正一位の神階も授けられた。墓の所在は定かでなく、1934年に阿武山古墳で見つかった人骨を鎌足本人とする説や、山科のどこかとする説がある。2013年の調査では、阿武山古墳の棺から出た冠帽が当時最高級の技術で作られ、金糸を織り込んだものと判明し、大織冠ではないかと考えられている。

家族では、妻に阿倍小足媛や車持与志古娘、鏡王女がおり、采女の安見児も賜った。『万葉集』には鎌足の歌が2首あり、1首は安見児を得た喜びを「われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり」と詠む。長男の定恵は僧となり、次男の不比等は藤原氏繁栄の礎を築いた。娘たちは天武天皇や弘文天皇に嫁いだ。のちに藤原氏から五摂家が出て、近衛文麿や細川護熙も子孫に数えられる。談山神社には、鎌をくわえた白い狐が生まれた子の足元に鎌を置いたことから「鎌子」と名づけられたという逸話が伝わる。鎌足の肖像は、かつて日本銀行券にも採用された。

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