HISTORICAL PERSON · 664年没

玄奘

唐代の訳経僧で、玄奘三蔵と呼ばれる。629年に国禁を犯してインドへ向かい、ナーランダ僧院で学んで645年に経典657部を持ち帰った。翻訳に生涯を捧げ、法相宗の開祖となり、旅を『大唐西域記』にまとめた。

生涯
664年没
死亡地
中華人民共和国(陝西省 / 銅川市)
出生地
中華人民共和国(偃師市)
出典
世界地図
中華人民共和国(陝西省)

伝記

玄奘は、唐代の中国の訳経僧である。602年、隋の時代に洛陽に近い洛州緱氏県で、引退した広陵県令の陳慧の四男として生まれ、俗名を陳褘といった。生年には598年説や600年説もある。家は後漢の陳寔を祖にもつ士大夫の家柄で、地方官を歴任していた。8歳のとき、父から『孝経』を習い、曾子が席を避けたくだりを聞いて、自分も座っていられないと言って襟を正して立ったまま教えを受けたという逸話があり、神童と評判になった。

10歳で父を亡くすと、次兄の長捷が出家して住んでいた洛陽の浄土寺に学び、11歳で『維摩経』と『法華経』を誦すようになった。度僧の募集に応じようとしたが若すぎて試験を受けられず、門の前で待っていたところ、大理卿の鄭善果が質問を重ね、出家の理由を問うた。陳褘が遠くは如来の教えを継ぎ、近くは遺された法を輝かせたいからと答えると、鄭善果は感じ入って特例を認め、度牒を得て出家した。618年に隋が衰えると、17歳で兄とともに長安へ移ったが、望むような講釈は得られなかった。名僧が益州に散らばっていると知り、619年に成都へ赴いて『阿毘曇論』などを学んだ。622年、21歳のときに成都の大慈寺で具足戒を受けた。その後は荊州、相州、趙州、長安で師を求めて学び歩いた。

仏典の研究は原典によるべきだと考え、仏跡の巡礼も志した玄奘は、629年、成立して間もない唐に出国の許可を求めたが、国内が不安定だったため認められなかった。そこで国禁を犯し、長安から涼州、瓜州を経て、役人の監視を逃れながら河西回廊を進み、高昌に至った。熱心な仏教徒であった高昌王の麴文泰は、国師として留めようとしたが、インドへの思いが強いと知ると金銭と人員で援助し、通過する国々の王に保護を求める文書を持たせた。玄奘は天山山脈を越え、ヒンドゥークシュ山脈を越えてインドに入り、ナーランダ僧院で戒賢に師事して唯識を学び、各地の仏跡を巡った。ヴァルダナ朝のハルシャ王の保護を受け、王に進講もしている。

出国から16年後の645年、657部の経典を携えて長安に戻った。唐の情勢は大きく変わり、太宗も業績を高く評価したため、密出国の罪は問われなかった。太宗は側近として国政に加わることを求めたが、玄奘は翻訳を第一の使命として断った。代わりに西域での見聞をまとめるよう命じられ、これに応じて編まれた報告書が『大唐西域記』である。同年2月から弘福寺で翻訳を始め、のちに拠点は大慈恩寺へ移った。652年には高宗に進言して大雁塔が大慈恩寺に建てられ、さらに玉華宮に居を移しても作業は続いた。

664年3月7日、最も重要な経典とされる『大般若経』の翻訳を終えた百日後に、玉華宮で亡くなった。持ち帰った経典の約3分の1しか訳せなかったが、完成した翻訳は76部1347巻に及ぶ。訳語を新たに選び直し、それ以前の鳩摩羅什らの訳は旧訳と呼ばれて区別される。『般若心経』の訳とされるものでは、観世音菩薩ではなく観自在菩薩の語を用いた。教えは日中の仏教界に影響を与え、法相宗の実質的な創始者は弟子の基とされる。日本からは道昭が入唐して教えを受けたという。

遺骨は長安南方の興教寺の舎利塔に収められたが、塔は唐末の黄巣の乱で破壊され、遺骨は持ち去られたとされる。また明代の小説『西遊記』は、『大唐西域記』や伝記を踏まえて書かれ、玄奘は三蔵の名で登場する。

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