伝記
アレクサンドロス1世は、紀元前498年(一説に前497年)から前454年まで在位した、古代マケドニアの王である。先王アミュンタス1世の子で、ギリシア人からは「ピロヘレン(ギリシア贔屓)」とも呼ばれた。この呼び名は、ペルシア戦争のころにアテナイとの関係が深まった時期に与えられたとされる。即位したころのマケドニアは、父の代からアケメネス朝ペルシアに従属していたが、国内では広い自治を保っていた。紀元前492年にはマルドニオスの遠征を受け、ペルシア帝国に完全に組み込まれたとされる。
若い頃の逸話として、ペルシアの使者殺害の話が伝わる。ペルシアが服従を迫る使者を送り、アミュンタスが受け入れて宴を開いたところ、使者たちがマケドニアの女たちに狼藉を働いた。怒った王子アレクサンドロスは、女装させた青年たちを差し向けて使者を殺させたという。やがて捜索隊を率いて来たブバレスには、金銭と妹ギュガイアを与えて事を収めたとも、ブバレスが彼女に恋して結婚し、手ぶらで帰ったともいわれる。ただし、ギュガイアの結婚は実際にあったらしいが、使者殺害の話は後世の創作か伝聞とみなす見方が有力である。
ペルシア戦争では、クセルクセス1世のギリシア侵攻にペルシア側として加わり、ヘロドトスは彼を総督と呼んでいる。紀元前480年のサラミスの海戦でペルシアが敗れた後は、マルドニオスの使者としてアテナイに赴き、ペルシアへの服属を条件とする講和を持ちかけたが、アテナイ人は拒んだ。一方で、ギリシア連合軍にテンペからの撤退を助言し、テッサリアへの別の道を教えるなど、ギリシア側に便宜を図った。紀元前479年のプラタイアの戦いの直前には、夜にアテナイの陣営を訪ね、マルドニオスの作戦を知らせたと伝わる。その際、自分は元来ギリシア人であり、ギリシアが自由を失うのを望まないと語ったという。戦いに敗れたペルシア軍の生き残りは、ストリュモン川の河口で彼の軍に襲われて多く殺されたとされる。戦後、マケドニアは独立を回復し、トゥキュディデスによれば彼は沿岸地域を征服して領土を広げた。
古代オリンピックへの参加でも知られる。それまでマケドニア人は異民族とみなされていたが、彼は自らの血統がアルゴス人、さらにヘラクレスにさかのぼることを示し、審判役のエリスの役人に認められて参加できた。ペルシア戦争以前の競技のスタディオン走で同着一位となり、決勝の再レースで敗れたため、優勝者の記録に名は残らなかった。この参加を捏造とする説も一人の研究者から出されたが、現在は事実とみなされている。宮廷はアテナイにならい、詩人ピンダロスやバッキュリデースを庇護し、二人はそれぞれ彼に詩を捧げた。アテナイのプロクセノスとしても最古の例に数えられる。
アミュンタス1世の子は彼ひとりで、母は名の分からない妃であり、エウリュディケという名だったかもしれないという。妹のギュガイアがペルシア人ブバレスに嫁いだ時期も、紀元前510年頃に父が取り決めたとも、父の死後に彼が処理したともいわれ、はっきりしない。子には後を継いだペルディッカス2世のほか、メネラオス、ピリッポス、アミュンタス、アルケタス、娘のストラトニケがいたとされる。ストラトニケは兄ペルディッカスによってトラキアのセウテス1世に嫁がされた。一説には、ペルディッカスはアルケタスを殺して王位に就いたともいう。王は紀元前454年に没した。
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