HISTORICAL PERSON · 661年没

斉明天皇

舒明天皇の皇后で、天智天皇・天武天皇の母。皇極天皇として即位し、乙巳の変後に弟の孝徳天皇へ日本史上初の譲位を行った。のち史上初の重祚で斉明天皇となり、阿倍比羅夫を蝦夷遠征に送った。

生涯
661年没
死亡地
朝倉橘広庭宮
出生地
—
出典
世界地図
位置情報未登録

伝記

斉明天皇は、594年に生まれ661年8月24日に没した日本の第35代・第37代天皇である。最初は皇極天皇として642年から645年まで在位し、のちに重祚して655年から661年まで斉明天皇として在位した。諱は宝女王、または宝皇女とされるが、後者は後世の尊称とみられている。舒明天皇の皇后で、天智天皇、間人皇女(孝徳天皇の皇后)、天武天皇の母にあたる。

茅渟王の第一王女で、母は吉備姫王、敏達天皇の曾孫である。はじめ高向王と結婚して漢皇子を産み、626年の少し前に田村皇子(のちの舒明天皇)と再婚した。630年、37歳で舒明天皇の皇后に立てられ、中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子を産んだ。641年に舒明天皇が崩御したが、跡継ぎとなる皇子が定まらなかったため、推古天皇のときと同じく中継ぎの女帝として、642年1月15日に49歳で即位した。在位中は蘇我蝦夷が大臣として重んじられ、その子の入鹿が自ら国政を執った。同年夏には、雨乞いのため蝦夷が大乗経典を転読させても微雨にとどまったが、天皇が南淵の川上で跪いて四方を拝み、天に祈ると雷が鳴って大雨が降り、雨は5日間続いたと伝わる。民衆はこれを称え、天皇を「至徳まします大王」と呼んだという。643年には飛鳥板蓋宮に移り、11月には蘇我入鹿が山背大兄王を攻めて、王は自害した。

645年6月12日、中大兄皇子らが宮中で皇極天皇の目の前で蘇我入鹿を討ち、翌日には父の蝦夷が自害した。これが乙巳の変である。6月14日、天皇は同母弟の軽皇子(孝徳天皇)に位を譲った。日本史上初の天皇の譲位とされる。以後は皇祖母尊の称号を奉られた。653年には中大兄皇子とともに孝徳天皇のもとを離れて飛鳥の行宮に移り、654年に病の孝徳天皇を難波に見舞った。孝徳天皇の崩御後の655年1月3日、62歳で飛鳥板蓋宮において再び皇位に即いた。史上初の重祚である。政治の実権は皇太子の中大兄皇子が握った。

斉明の時代には土木工事が相次いだ。飛鳥の岡本に後飛鳥岡本宮を造り、香久山の西から石上山まで溝を掘って、舟で石を運び石垣をめぐらせた。吉野宮や多武峰の両槻宮も造っている。この溝は当時「狂心の渠」と揶揄され、労役の重さを見た人々は批判した。658年、有間皇子の謀反が通報された際には、蘇我赤兄が天皇の失政として、倉を建てて民の財を集めたこと、長い溝を掘って公の糧を費やしたこと、船で石を運んで丘にしたことの三つを挙げた。一方で、これらの工事を飛鳥一帯を宮都として整える構想の一環とみる研究者もいる。同じ年、8歳の孫の建王が亡くなり、天皇は甚だ悲しんだ。対外面では、朝鮮半島の諸国と使者を交わし、唐にも使者を送った。『日本書紀』によれば、阿倍比羅夫を三度、海路で北方の蝦夷の征討に遣わし、後方羊蹄に至って郡領を置いた。幣賄弁島では粛慎と戦って勝ったという。その所在には諸説があり、定説はない。

660年に百済が唐と新羅に滅ぼされると、鬼室福信らが救援と王子豊璋の帰国を求めてきた。天皇は出兵を命じ、豊璋を帰国させるよう命じた。難波に移って武器と船を整えさせ、661年1月に西へ向けて出航し、伊予の熟田津を経て、5月に筑紫の朝倉橘広庭宮に入った。しかし遠征軍が出る前の7月24日、68歳で朝倉宮で崩御した。皇太子は即位せずに称制し、日本軍は朝鮮半島に上陸して白村江の戦いに臨んだが、唐と新羅の連合軍に敗れた。陵は宮内庁により奈良県高取町の越智崗上陵とされるが、研究者の間では明日香村の牽牛子塚古墳が有力視されている。

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