伝記
ペーター・ジーモン・パラスは、ドイツの動物学者であり、植物学者である。1741年9月22日にベルリンで生まれ、1811年9月8日に同地で没した。後半生の大部分をロシアで過ごし、ロシア帝国のために働いた。
父は東プロイセン出身の解剖学教授で、ベルリンの医学外科学校の主任外科医を務めた人物である。母はメスのユグノーの家系に連なるシュザンヌ・リエナールである。家庭教師から教育を受け、早くから博物学に関心を示し、13歳のころには、ドイツ語のほかラテン語、ギリシア語、フランス語、英語を自在に使いこなしたという。当時のプロイセンは、フリードリヒ2世の治世のもとで勢いを増していた。医学外科学校で解剖学、生理学、外科学、植物学、動物学を学んだのち、ハレ大学とゲッティンゲン大学に通い、リンネの体系に基づく植物学を学んだ。1760年にライデン大学に移り、19歳で博士の学位を得た。
その後、オランダやロンドンを訪れて、医学と外科学の知識を深めた。イギリスの博物学者トマス・ペナントと知り合い、のちまで豊かな書簡を交わした。ペナントの『北極動物誌』の執筆の材料を提供したのもパラスだという。1762年にいったんベルリンへ戻り、翌年にはハーグに住んだ。研究の仕事に追われて、そこでサミュエル・ゴットリープ・グメリンとも知り合った。動物の分類法はキュヴィエに賞賛された。1766年に『動物学雑録』を発表し、博物館に収集された新発見の脊椎動物の記述を含んでいた。名声はすでに高く、1764年には23歳でロンドンの王立協会の会員となり、ローマのアカデミーの会員にもなっている。アフリカ南部や新大陸、アジアへの旅行を計画したが、父に呼び戻されてベルリンへ戻った。
1767年、ロシアのエカチェリーナ2世から、サンクトペテルブルクの科学アカデミーの博物学教授として招かれた。最初は断ったが、結局受け入れ、妻と幼い娘を連れてロシアへ入った。女帝は帝国の天然資源の研究に関心を持っており、学者たちの調査を後援しようとしていた。パラスは、その探検隊の一つを指揮することになり、1768年から1774年にかけて、バイカル湖の東岸までのロシア各地を調べた。探検隊は中央ロシアからヴォルガ川の流域、カスピ海、ウラル山脈、西シベリア、アルタイ、バイカル湖、ザバイカルを巡った。三人の若い学生や画家、剥製師も同行していた。調査の結果は、定期的にサンクトペテルブルクに送られ、のちに『ロシア帝国の諸地方の旅』として出版された。地理学や鉱物学、シベリアの先住民族とその宗教、新しい動植物が記されている。
探検では、隕石の研究史上で重要な記録も残した。当時まだ起源が知られていなかった鉄の塊を持ち帰り、探検記には、この鉱物が1749年にクラスノヤルスクの南の村に空から落ちてきたという、現地の人々の証言を記した。これは石鉄隕石で、のちにパラサイトと呼ばれる。ドイツの物理学者クラドニが1794年に研究して、隕石の地球外起源説を初めて唱えた。1793年から1794年には2回目の探検隊を率いてロシア南部を旅し、その記録を著した。1810年にベルリンに戻り、翌年に亡くなった。中央アジアにすむマヌルネコなど、多くの動物の英名にその名が付けられている。
同じ年に亡くなった人物
- ネヴィル・マスケリン (1811年没)
- ハインリヒ・フォン・クライスト (1811年没)
- ジャン=フランソワ・シャルグラン (1811年)
- アンドレヤン・ザハーロフ (1811年没)
- サミュエル・チェイス (1811年没)
同じ地域に関係する人物
- アントワーヌ・ペーヌ (1757年没)
- ヴォルフガング・ヘルンドルフ (2013年没)
- タラート・パシャ (1921年没)
- カール・ハインリヒ・コッホ (1879年没)
- アルフレート・アーベル (1937年没)