伝記
メフメト・タラート・パシャは、1874年9月1日にエディルネ州のクルジャーリで生まれ、1921年3月15日にベルリンで殺害された、オスマン帝国末期の政治家である。統一と進歩委員会の指導者の一人で、第一次世界大戦下のオスマン帝国を、内務大臣および大宰相として、陸軍大臣エンヴェル・パシャ、海軍大臣ジェマル・パシャとともに指導した。トルコ人、ロマ人、ポマク人の血を引く中流の家庭に生まれ、父アフメト・ヴァスフはカーディーだった。一家は、1877年から1878年の露土戦争でロシア軍に自宅を占領されてイスタンブールに逃れ、この経験が彼のナショナリズムに影響したといわれる。父は彼が11歳のときに亡くなり、母と二人の姉妹を養う立場になった。体格がよく、態度が粗野だったため、軍の中等学校で教師と衝突して、16歳で卒業証書のないまま退学処分を受けた。家族を養うためエディルネの郵便局員となり、給料が低いので、夜はユダヤ人学校でトルコ語を教えた。
当時のオスマン帝国は、アブデュルハミト2世が秘密警察や大衆監視、検閲を備えた近代的な専制を敷き、疑心暗鬼の文化と、秘密の反乱の精神を生み出していた。タラートは「うまくいっている。まもなく目標に到達する」という電報を打とうとして警察に問われ、郵便局の友人二人とともに、公式電報の不正使用の罪で、1893年に逮捕された。釈放後は、セラーニクの郵便局に転勤となり、統一と進歩委員会に加わった。1898年から1908年まで、同地の郵便局に勤め、局長にまで昇進し、この間にハイリェ・ハヌムと結婚した。1908年、セラーニクで統一派が憲法復活を唱えて武装蜂起し、青年トルコ革命が勃発したが、蜂起を指導したのはアフメト・ニヤーズィやエンヴェルら軍人で、タラートは中心人物ではなかった。皇帝は鎮圧軍を向かわせたが、鎮圧軍も反逆したため、7月23日に憲法の復活を宣言した。革命が成功すると、タラートはエディルネ州から議員に選ばれ、翌年7月に内務大臣に任命された。
1913年にエンヴェルとクーデタを行い、7月にマフムト・シェウケト首相が暗殺されると、サイード・ハリム内閣でも内相を務め、エンヴェル、ジェマルとともに、党内と政府内での指導的地位を確立して、三頭政治を展開した。1914年11月、三人の指導下のオスマン帝国は、ドイツとオーストリア=ハンガリー側に立って、第一次世界大戦に参戦した。ロシアが東部諸州に侵攻すると、アルメニア人の中にロシア軍に呼応する者やゲリラ活動を行う者が現れ、反アルメニア感情を煽った。タラートは、東部戦線の安定化を図ってアルメニア人の強制移住令を命じ、1915年4月24日にはコンスタンティノープルのアルメニア人知識人の逮捕と追放を命じて、そのほとんどが殺害された。5月30日には強制移送法が公布され、これらがアルメニア人虐殺の始まりとなった。今日、彼は虐殺の主要な実行者とされ、約100万人の死に責任があるとされている。
1917年2月に首相に就任し、戦況は好転せず、1918年にエルサレムとバグダードが陥落し、10月14日に大宰相を辞任した。10月30日にムドロス休戦協定が結ばれ、敗戦で三頭政治は終わった。11月初め、三人は国外へ脱出し、ベルリンに亡命した。軍事法廷は、憲法の破壊、戦争による利益、ギリシア人・アルメニア人の虐殺の組織などの罪で、欠席のまま死刑を宣告した。亡命先で、ムスタファ・ケマルのトルコ民族運動を支持した。1921年3月15日、ベルリンで、アルメニア革命連盟のアルメニア人青年によって殺害された。
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