伝記
ホレイショ・ネルソンは、1758年9月29日に生まれ、1805年10月21日に没したイギリス海軍の提督で、初代ネルソン子爵である。アメリカ独立戦争やフランス革命戦争、ナポレオン戦争で活躍した。ナイルの海戦でフランス艦隊を壊滅させ、トラファルガー海戦ではフランス・スペイン連合艦隊に大勝してナポレオンの英国本土侵攻を阻んだが、自身は同海戦で戦死した。イギリス史上最大の英雄とされ、世界三大提督の筆頭に挙げられることが多い。
ノーフォークのバーナム・ソープ村の教区牧師の第六子として生まれ、母方の叔父モリス・サクリングは海軍の軍人であった。12歳だった1770年、父が病床にあって家計が苦しかったこともあり、戦列艦の艦長を務める叔父を頼って海軍に入り、北洋探検航海などに参加した。1774年から東インド方面に勤務したが、マラリアにかかって帰国した。1777年に海尉昇進試験に合格し、翌年には初めての指揮艦を得て、1779年に21歳で勅任艦長となった。1784年には小アンティル諸島の鎮守府に赴任し、独立後まもないアメリカ商船の扱いをめぐって現地の上官や農場主と摩擦を起こした。1787年、ネヴィス島で知り合った未亡人フランシス・ニズベットと結婚した。
1793年にフランス革命戦争が始まると、戦列艦アガメムノンの艦長として地中海に展開し、10月にフランス艦との戦闘を初めて経験した。1794年にはコルシカ島で陸上戦闘を指揮し、カルヴィの攻略戦で右目の視力を失った。1797年、サン・ビセンテ岬の海戦では、司令官ジャーヴィスの命令を待たず、逃走するスペイン艦隊に突入して2隻を拿捕し、バス勲爵士に叙せられて少将に昇進した。同年、テネリフェ島の攻略に失敗して右腕を負傷し、切断した。こうして隻眼、隻腕の提督となった。1798年、エジプト遠征を企てるナポレオンのフランス艦隊の封鎖にあたったが、嵐を避けて寄港した隙に出港を許した。その後も追跡を続け、アブキール湾に停泊中のフランス艦隊を見つけると、浅瀬を背に縦に陣を敷いていた敵艦の間をすり抜けて挟撃し、これを撃滅した。ナイルの海戦である。ナポレオンは帰路を絶たれてエジプトに孤立し、ネルソンは男爵に叙せられた。1801年の中将昇進後のコペンハーゲンの海戦では、司令官パーカーの「戦闘中止」の信号旗を、見えない右目に望遠鏡を当てて無視したという逸話が有名で、この戦功でネルソン子爵となった。
1805年、トラファルガー岬沖でフランス・スペイン連合艦隊を捕捉し、二列の縦陣で敵に迫る「ネルソン・タッチ」で臨んだ。英国の戦列艦27隻に対し敵は33隻で、実質的に2倍以上の敵と戦う情勢であった。戦闘前には「英国は各員がその義務を尽くすことを期待する」の信号旗を掲げ、この言葉は今も名文句として残る。旗艦ヴィクトリー号の先頭に立って突撃し、部下に身を隠すよう勧められても後甲板に立ち続けた。連合艦隊のヴィルヌーヴは接近戦に備えて狙撃手を配置しており、接舷した敵艦から銃弾を受けて、ネルソンは戦死した。死に際には、ハーディ艦長に「神よ感謝します、私は義務を果たしました」とささやき、最後の言葉は「神よ祖国よ」であった。英国側の死者449人に対し、敵は死者4,480人で、英国は1隻も艦を失わず、ブーローニュに集結していたフランス軍の上陸作戦は実行不可能となった。遺体は酒の樽に入れて本国に運ばれ、翌年、君主以外では初の国葬としてセント・ポール大聖堂に葬られた。ロンドンのトラファルガー広場には、ネルソン記念柱が立つ。
同じ年に亡くなった人物
- クリストファー・ガズデン (1805年没)
- コンラート・メンヒ (1805年没)
- ニコラ・ジャック・コンテ (1805年)
- フェリーチェ・フォンタナ (1805年)
- スタニスワフ・シュチェンスヌィ・ポトツキ (1805年没)
同じ地域に関係する人物
- ホセ・デ・ラ・セルナ (1832年没)
- フェリペ3世 (ナバラ王) (1343年没)
- アルフォンソ・デ・オルレアンス (1975年没)
- アルフォンソ11世 (カスティーリャ王) (1350年没)
- パスクワル・セルベラ (1909年没)