伝記
ヨーハン・クリストフ・フリードリヒ・フォン・シラーは、1759年11月10日にヴュルテンベルク公国のマールバッハに生まれ、1805年5月9日に没したドイツの詩人であり、劇作家、歴史学者、思想家である。ゲーテと並んでドイツ古典主義を代表する。青年時代には肉体的な自由を、晩年には精神的な自由を主題とし、その求めた自由はドイツ人の精神生活に大きな影響を与えた。ベートーヴェンの交響曲第9番の原詞でもよく知られる。
父は将校兼軍医のヨーハン・カスパール・シラー、母はエリーザベト・ドローテーアである。幼いころから頭がよく、1767年にルートヴィヒスブルクのラテン語学校に入り、神学校への進学を目指した。ところが領主のカール・オイゲン公に才能を買われ、強制的に軍人養成学校のカール学院に入れられた。ここでは初め法律を専攻し、1775年から医学に転じた。シェイクスピアの『オセロ』やゲーテの『若きウェルテルの悩み』、疾風怒濤期の作品に触発されて、1776年、18歳で処女作『群盗』の執筆を始めた。1781年にこれを匿名で発表し、翌年1月13日のマンハイムでの初演では、若い観客が熱狂し、失神する者まで出たという。公から領地を出ることを禁じられていたが、初演には秘密裏に出向いた。このため公に目をつけられ、14日間の独房生活を命じられたうえ、医学書以外の著作を禁じられた。
1782年9月、友人シュトライヒャーとともにシュトゥットガルトを出奔し、亡命生活に入った。マンハイムで『フィエスコの叛乱』を書き上げ、困窮の中で、身分違いの恋を描く市民悲劇『たくらみと恋』を完成させ、宮廷を舞台にした『ドン・カルロス』に着手した。マンハイム劇場の専属詩人となったが、『ドン・カルロス』の執筆に難渋して契約を解除され、路頭に迷った。これを支えたのが、生涯の友となるクリスティアン・ケルナーと、その文芸サークルの仲間たちである。『たくらみと恋』に感動した彼らは、1784年に匿名でファンレターを送った。シラーは半年後に自分の窮状を明かし、1785年にライプツィヒへ赴いて、ドレスデンのケルナーのもとに身を寄せた。その歓迎に感激して、のちに第九の歌詞となる『歓喜の歌』を作った。ケルナーはシラーの死後に、初の全集を出している。
1787年にヴァイマルを訪れ、ヴィーラントやヘルダーと出会った。『ドン・カルロス』がようやく出版、上演され、三十年戦争とヴァレンシュタインの研究で歴史家としても名声を得た。1788年にゲーテと初めて会ったが、互いに好印象を抱けなかった。それでも1789年に、ゲーテの推挙でイェーナ大学の歴史学教授に招かれた。就任講演には学生が殺到して、大講義室へ移ったほどだったが、俸給はなかった。この年に小説『見霊者』を発表し、1790年にシャルロッテ・フォン・レンゲフェルトと結婚した。翌年に病に倒れ、金銭の援助を受けた。1791年から集中的にカント哲学を研究し、『人間の美的教育について』などを著して、ヘーゲルやフィヒテ、ロマン派にも影響を与えた。1792年にはフランス革命の名誉市民に選ばれた。
1794年7月、イェーナでの植物学会でゲーテと話し、原植物をめぐって意気投合し、本格的な親交を結んだ。二人は手を携えてドイツ古典主義の文学様式を確立し、1000通を超える書簡を交わした。シラーは雑誌『ホーレン』や『詩神年鑑』の編集者としても精力的に活動し、1796年には、ゲーテと風刺詩集『クセーニエン』を共同制作した。
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