伝記
舒明天皇は、伝統的な皇統譜で第34代とされる天皇である。在位は629年から641年までで、即位前の名は田村皇子といった。敏達天皇の孫にあたり、父は押坂彦人大兄皇子、母は父の妹の糠手姫皇女で、父方からも母方からも敏達天皇の孫にあたる。即位後の名は息長足日広額天皇である。
推古天皇は、629年に亡くなる前、田村皇子と聖徳太子の子の山背大兄王を呼び、それぞれに短い言葉をかけたが、後継者を明確には示さなかった。そのため朝廷は二人の皇子をそれぞれ支持する二派に分かれた。蘇我氏の長である蘇我蝦夷は田村皇子を推し、推古天皇の遺言は田村皇子に位を継がせる望みを示すものだと主張したという。こうして皇位継承が田村皇子に受け継がれ、ほどなく即位して舒明天皇になったとされる。山背大兄王はのちに蘇我氏に攻められ、一族とともに自害した。
当時の称号は、天皇号が天武天皇・持統天皇の時代に導入されたとみる歴史家が多いため、天皇ではなく、同じ字で書くスメラミコトか、治天下大王、あるいはヤマト大王・大君であったと考えられている。舒明天皇は在位中、後継者を定めようとせず、政敵の山背大兄王もなお存命だった。山背大兄王とその一族と、舒明天皇自身の子らとの間の平和を保つため、皇位は妻で姪にあたる皇極天皇に移った。在位中は蘇我蝦夷がいくつもの政治的主導権を握った。在位は13年に及び、舒明天皇13年に49歳で亡くなった。のちには、皇極天皇、その弟の孝徳天皇、再び皇極天皇が斉明天皇として即位し、さらに舒明天皇の二人の子である天智天皇と天武天皇へと皇位が受け継がれた。
后妃と子について見ると、妃の田眼皇女は敏達天皇の娘である。皇后の宝皇女は、のちの皇極天皇で、茅渟王の娘にあたる。二人の間には、のちの天智天皇である葛城皇子(中大兄皇子)、のちの天武天皇である大海人皇子、孝徳天皇の皇后となった間人皇女が生まれた。夫人の蘇我法提郎女は蘇我馬子の娘で、古人大兄皇子と布敷皇女を産んだ。ほかに蚊屋采女との間に蚊屋皇子、粟田香櫛媛との間に押坂錦向皇女、蘇我蝦夷の娘である蘇我手杯娘との間に箭田皇女がいる。『万葉集』には、舒明天皇の作とされる歌があり、香具山に登って国を望む歌として、大和には多くの山があるが、天の香具山に登って国見をすれば、広い平野に煙が立ちのぼり、広い池にかもめが飛び立つ、美しい国だ大和の国は、と詠んでいる。
陵は、宮内庁により奈良県桜井市の押坂内陵に治定されている。遺跡名は段ノ塚古墳で、下方部は一辺約105メートル、上円部の基礎は実際には八角形をなす上八角下方墳とされる。『日本書紀』によれば、崩御の翌年の皇極天皇元年12月13日に喪を起こし、同月21日に滑谷岡に葬られ、皇極天皇2年9月に押坂陵に改葬された。『延喜式』には押坂内陵の名で記され、大和国城上郡にあって遠陵に分類され、兆域は東西9町・南北6町とされ、陵内には糠手姫皇女の墓があるとする。元禄の探陵で段ノ塚と呼ばれていたこの古墳が陵と決まり、幕末の元治元年(1864年)に修陵が始まって、慶応元年(1865年)に竣工した。明治天皇陵以降の天皇陵が採る上円下方の形は、この古墳がモデルになっている。初葬地の滑谷岡の所在は明らかでなく、新たに見つかった小山田古墳に当てる説もある。皇居の皇霊殿には、歴代の天皇・皇族とともに舒明天皇の霊が祀られている。
同じ年に亡くなった人物
- Arechis I of Benevento (641年)
- 欧陽詢 (641年没)
- マルティナ (東ローマ皇后) (641年)
- Bridei II (641年)
- ヘラクレイオス (641年没)
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