HISTORICAL PERSON · 1803年没

ピエール・ショデルロ・ド・ラクロ

フランスの砲兵士官。駐屯地での任務の余暇に書いた小説『危険な関係』の作者として知られ、女子教育を論じる文章も著した。

生涯
1803年没
死亡地
イタリア共和国(ターラント県 / ターラント)
出生地
フランス共和国(アミアン)
出典
世界地図
イタリア共和国(ターラント県)

伝記

ピエール・アンブロワーズ・フランソワ・ショデルロ・ド・ラクロは、フランス・アミアン出身の砲兵士官で、小説『危険な関係』の作者である。1741年10月18日に生まれ、1803年9月5日に没した。時代の矛盾を体現した啓蒙の世紀の几帳面な士官で、小説家であったのは一つの傑作を書いた間だけだった。軍事的な才能に恵まれながら、政治では挫折を味わった。姓の発音には論議があり、手書き原稿には別の綴りが見られ、同時代の文献にもさまざまな綴りが散見されることから、本人は「ショーデルロ」と発音していたと推察される。

ピカルディとアルトワの地方長官府の書記を務めた父の次男として、特に由緒ある家柄ではなく、1750年にようやく貴族に叙せられた法服貴族の家に生まれた。父に軍人になるよう勧められ、昇進の見込みは限られるものの、家柄では上の兵科は望めず、数学的な頭脳に向いた砲兵を選んだ。1760年、18歳で砲兵学校に入り、翌1761年3月に少尉に任官した。ストラスブール、グルノーブル、ブザンソン、ヴァランスなどの地方都市を転々とし、衛戍隊付士官としての生活を送った。七年戦争の終結で戦功を挙げる機会はなく、野心を抑えて退屈な駐屯生活を送った。1768年から約7年間のグルノーブル滞在中は、社交界でもてはやされ、『危険な関係』の材料を収集できたとされる。メルトゥイユ侯爵夫人のモデルは、ラ・トゥール・デュ・パン・モンモールではないかともいわれる。

軍務の余暇に文学を試み、軽い詩を年鑑に発表した。1777年7月、リコボニ夫人の小説を喜歌劇『エルネスティーヌ』に改作したが、一度きりの上演で失敗した。同年、ヴァランスに新設する砲兵学校の準備を命じられ、翌年ブザンソンに戻って、ルソーの熱烈な崇拝者として『新エロイーズ』を評価した。1779年、モンタランベール元帥のもとで、大西洋沿岸のレ島やエクス島の要塞構築に携わり、その余暇に『危険な関係』の執筆を始めた。元帥は彼を「もう一人の自分」と呼んで信頼した。1783年には、女性の教育も男性と同じく重要であると説く「女子教育について」を書いた。1786年には築城家ヴォーバンの顕彰を批判する手紙をアカデミー・フランセーズに送ったが、このために軍当局と不和になり、1788年に軍職を退いた。セギュール元帥の紹介でオルレアン公フィリップの側近となり、1787年5月、マリ=ソランジュ・デュベレと結婚して、夫婦仲は良かった。

1789年に革命が起こると、ロンドンへ追放されたオルレアン公に随行し、1790年7月にともにパリへ帰還して、11月にジャコバン・クラブに入り、機関誌『憲法の友』の編集に携わった。1791年のヴァレンヌ事件以後は、王太子の即位とオルレアン公の摂政実現に努めて失敗し、再び軍隊に復帰して、1792年9月に旅団長に昇進した。1793年3月にオルレアン公とともに反革命の罪で逮捕され、新式砲弾の実験のため一時釈放されたが、11月に再度逮捕された。約1年の収容の後、1794年12月にバラスの助言で釈放された。1799年のブリュメール18日のクーデターに参加してボナパルトの知遇を得、1800年に砲兵少将に任命されて、イタリア遠征軍に加わった。1803年にナポリ派遣軍の司令官に任命されたが、赤痢にかかり、62歳で死去した。

1782年の『危険な関係』は、貴族社会の道徳的退廃と風紀の紊乱を活写した内容で、上梓当時は顰蹙を買いつつも広く読まれた。他の著作は凡作とされ、後世まで読み継がれた傑作はこれのみである。

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