HISTORICAL PERSON · 1803年没

サミュエル・アダムズ

アメリカ建国の父の一人。印紙法への抗議やボストン茶会事件を組織し、植民地のイギリスへの反抗を主導した。第二次大陸会議では独立宣言の採択を主導した。

生涯
1803年没
死亡地
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州 / ボストン)
出生地
アメリカ合衆国(ボストン)
出典
世界地図
アメリカ合衆国(マサチューセッツ州)

伝記

サミュエル・アダムズは、アメリカ合衆国の指導者、政治家、著作家であり、建国の父の一人である。1722年9月16日(新暦9月27日)にマサチューセッツのボストンに生まれ、1803年10月2日に没した。イギリスに対する反抗に植民地人の支持を集める主唱者であり、アメリカの独立につなげた人物で、共和政治の原則を形作る者の一人ともなった。

宗教的にも政治的にも活動的な家庭の、10番目の子として生まれた。兄弟は短命で、3歳まで生きたのはアダムズが二人目だった。父は教会の助祭で、植民地議会の一員として町の多くの事柄に関わった政治好きの人物であり、イギリス政府の植民地政策に行動的な姿勢をとった。両親は敬虔な清教徒であった。権威あるボストン・ラテン学校に入り、ギリシア・ラテン文学に深い関心を示した。母は聖職者になることを望み、本人も将来は牧師になろうと考え始めた。

1736年、14歳でハーバード大学に入って神学を学び始めたが、しだいに政治と政治学に興味を移した。ジョン・ロックの『統治二論』に特に影響を受け、人間は生まれながらに自然権を持ち、政府は人民の権利を守る義務があるとする考えに魅了された。1740年に学位を得た後も大学院で研究を続け、修士論文では、国家が保護してくれないとき、執行官に対する反抗が法に適うか否かを論じた。修士号を取ると、母は聖職者に、父は法律を学ぶことを望んだ。決めかねていたが、父の助言で商業の世界に入り、会計事務所に紹介された。ところが実業に興味を抱けず、「実業家を育てようと考えているのであって、政治家を育てるつもりはない」と言われて解雇された。父から1,000ポンドを与えられて事業を試みたが、その半分を友人に貸して返してもらえず、残りも散財した。父の家業の醸造所で働き、通りで麦芽を運ぶ姿から「麦芽職人のサム」と呼ばれることもあった。1746年にはボストン市場の事務官の一人に選ばれ、初めて選挙に出た。

1748年1月、数人の友人と週刊の論評紙を創刊し、ホイッグ(愛国者)の立場に立った社説や論評を載せた。イギリス議会がアメリカ植民地人の権利を制限しているとして反対の意見を説き始め、「人々は規約を信じるべきであり、命令する指導者を信ずべきではない」と述べた。同年3月に父が亡くなり、醸造所を継いだが、管理に失敗して1760年に破産し、一時は負債が8,000ポンドにもなった。1749年に牧師の娘エリザベス・チェクリーと結婚したが、多くの子が幼くして死に、妻も1757年に32歳で亡くなった。1761年にはエリザベス・ウェルと出会った。

同じ年までにボストン町民会議の積極的な一員となり、植民地課税に対する運動の中心人物となった。1764年にイギリスが砂糖法を通過させても、植民地から目立った抗議が起きなかったことに、愕然とした。議会に送る指示書を起草し、これは、イギリス議会が植民地に課税する権利に疑問を投げかけた最初の公的文書であり、植民地の団結を呼びかける最初の文書ともなった。のち、1765年の印紙法への抗議の文書を書き、1773年のボストン茶会事件を組織化して大陸会議に出席し、第二次大陸会議では独立宣言の採択を主導した。マサチューセッツ憲法の作成を助け、1789年に州副知事、1793年に知事となり、1797年6月まで務めた後、政界を引退した。

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