伝記
頡利可汗(イリグ・カガン)は、東突厥の最後の可汗である。姓は阿史那氏、名は咄苾といい、頡利可汗は称号にあたる。啓民可汗の三男で、始畢可汗・処羅可汗の弟にあたる。母は吐谷渾の出身で、婆施という名であったともされ、吐谷渾の将軍に育てられたと伝わる。成人すると莫賀咄設(バガテュル・シャド)の官名を与えられ、帝国の東部を治めた。634年に没した。
620年に兄の処羅可汗が亡くなると頡利可汗として即位し、兄の妻であった義成公主をレビラト婚によって娶った。始畢可汗の子の什鉢苾は突利可汗とし、自分のかつての部族を任せた。唐へも使者を送り、処羅可汗の死を報告している。前代からの親隋の政策を引き継ぎ、隋の傀儡の皇帝を支えもした。唐との最初の接触は敵対的で、621年4月には自ら万余騎を率い、苑君璋とともに雁門を攻めたが、定襄王の李大恩に敗走させられた。翌年には劉黒闥と組んで李大恩を包囲して破り、河北の略奪に加わった。自ら5万騎を率いて汾州を侵し、数千騎を霊州・原州に送り、并州を囲んで5千余人を掠めたが、秦王の李世民が蒲州から向かうと知ると、兵を引いて長城を出た。
唐は高祖の時代、貢物と公主を与えて侵入をやめさせようとした。しかし侵入は繰り返された。624年8月、頡利可汗と突利可汗は国を挙げて唐に入寇し、李世民に退けられた。李世民が突利可汗を兄弟の誓いに背いたと責めたため、頡利可汗は突利可汗を疑うようになったとされる。その後、突利可汗と阿史那思摩を送って和睦を請い、思摩は高祖から和順王に封ぜられた。それでも625年7月には十余万の兵で朔州を大掠し、唐将の張瑾を太原で襲って全滅させた。このとき、捕らえた温彦博に唐の強弱を尋ねたが答えを得られず、陰山へ移したという。李世民の軍が来ると撤退した。
626年7月、頡利可汗は十余万騎を率いて武功へ侵攻し、都は厳戒態勢に入った。軍は高陵に進んだが、涇陽で尉遅敬徳に敗れ、俟斤の阿史徳烏没啜が捕らわれた。腹心の執失思力を送って和睦を求めたが、李世民に拘束された。太宗が即位して19日後には、頡利可汗と突利可汗は長安の渭水の対岸まで迫った。太宗は高士廉・房玄齢を伴い、川越しに自ら和議の条件を交渉した。条件には東突厥への貢物が含まれ、頡利可汗は退いた。9月には馬3千匹と羊1万匹を献上したが高祖は受けず、それまでに捕らえた中国人をすべて返還させる詔を出した。
627年、家畜が雪害で全滅したため、頡利可汗は従属する鉄勒の諸部から馬を徴発しようとした。これに薛延陀を中心とする諸部が反乱を起こし、唐の太宗は鉄勒や契丹と結んで攻撃に備えた。欲谷設を送って鎮圧を図ったが敗れ、突利可汗の討伐軍も敗北した。怒った頡利可汗は突利可汗を十数日拘束し、突利可汗は怨みを抱いて内心で謀反を考えるようになった。ソグド人の宰相への嫉妬から、突厥の将軍たちにも不満があったという。629年には大雪が降って、内外の者が頡利可汗から離反し、薛延陀は漠北で自ら可汗と称した。12月に突利可汗らは唐に投降した。太宗は李靖を総指揮とする討伐軍を送り、630年2月、頡利可汗は謝罪して国を挙げて内附したいと申し出た。李靖はこれに乗じて襲撃して東突厥を大破し、東突厥は滅んだ。頡利可汗は単騎で従姪の沙鉢羅の部落へ逃れたが、3月に張宝の軍に生け捕られて京師に送られた。太宗は右衛大将軍の位を授けた。634年2月13日に亡くなり、太宗は国人に命じて葬らせた。その習俗に従って、遺体は灞水の東で火葬された。帰義王が贈られ、諡は荒王とされた。
同じ年に亡くなった人物
- カドウァロ (634年)
- Georgius Pisida (634年没)
- オズリック (634年)
- Abu al-As ibn al-Rabi (634年没)
- Nusaybah bint Ka'ab (634年)
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