伝記
フョードル・ミハイロヴィチ・ドストエフスキーは、1821年11月11日(ユリウス暦10月30日)、モスクワのマリインスキー貧民救済病院の官舎で、医師ミハイル・アンドレーヴィチ・ドストエフスキーの次男として生まれた。父はこの病院でのちに院長を務めた。母はモスクワの裕福な商人の娘である。兄が1人、妹が2人、弟が2人いた。1827年に父が八等官に昇進して領地を持つことが許されると、1831年にトゥーラ州のダロヴォーエを買い、翌年には隣村のチェリョーモシナも買って「地主貴族」になった。母が読み書きに使った『旧約聖書』『新約聖書』や、シラーの『群盗』に強い感銘を受けたという。1834年に文学教育に力を入れるチェルマーク寄宿学校に入ったが、貴族的な同級生の中で場違いだと感じ、その経験は後の作品に影響を与えた。
1837年に母が亡くなり、この年、咽喉の病で発音が不自由になった。1838年、16歳のときに首都ペテルブルクの陸軍中央工兵学校に入学したが、軍事や訓練に関心が乏しく、絵画や建築を好んだため、学校を嫌っていた。1839年には、父が農民の恨みを買い、領地の境界あたりで惨殺された。1843年に工兵学校を卒業して製図局に勤めたが、肌に合わず約1年で退職し、作家を目指した。1846年、処女作『貧しき人々』を批評家ベリンスキーに「第二のゴーゴリ」と激賞されて、華々しくデビューを果たした。原稿を読んだ詩人ネクラーソフが、感動して夜中にドストエフスキー宅を訪れたという逸話は有名である。しかし、続く『白夜』『二重人格』は酷評された。
その後、ペトラシェフスキーが主宰する空想的社会主義のサークルの一員となったため、1849年に官憲に逮捕された。死刑判決を受けたが、銃殺刑の執行直前に皇帝ニコライ1世から特赦が与えられた(この一連の特赦はすべて仕組まれたものだった)。シベリア流刑に減刑され、オムスクで1854年まで服役し、その体験をもとに『死の家の記録』を著した。刑期を終えるとセミパラチンスクで兵士として勤務し、1858年にペテルブルクに戻った。この間に理想主義的な社会主義者から、キリスト教的人道主義者へと思想が変わっていった。
賭博にのめり込む性質や、流刑時代に悪化した持病のてんかんは、創作に強い影響を与えた。賭博好きのために生涯貧しく、借金の返済のため出版社と無理な契約を結んで締め切りに追われ、『罪と罰』『賭博者』は口述筆記という形をとった。速記係アンナ・スニートキナはのちに2番目の妻となる。その後『白痴』『悪霊』『未成年』を発表し、雑誌『市民』で担当した文芸欄が『作家の日記』となった。そこには、年少犯罪者など恵まれない子どもたちへの関心もあれば、ユダヤ人を批判する主張もあった。晩年に集大成の『カラマーゾフの兄弟』を脱稿し、数か月後の1881年1月28日(新暦2月9日)、家族に看取られて亡くなった。葬儀には三万人が参列し、アレクサンドル・ネフスキー大修道院の墓地に葬られた。墓には、『カラマーゾフの兄弟』の序文で引用された『ヨハネによる福音書』第12章24節が刻まれている。トルストイ、ツルゲーネフと並ぶ19世紀後半のロシア小説を代表する文豪で、その著作は170以上の言語に翻訳されている。
同じ年に亡くなった人物
- ジョージ・ボロー (1881年没)
- レオン伯シャルル (1881年没)
- ウィリアム・バージェス (1881年没)
- マリーア・クレメンティーナ・ダズブルゴ=ロレーナ (1798-1881) (1881年没)
- ジャック=ニコラ・レメンス (1881年没)
同じ地域に関係する人物
- ドミトリー・トルストイ (1889年没)
- Leonid Rogozov (2000年没)
- ヴィクトル・アバクーモフ (1954年没)
- ボリス・ストルガツキー (2012年没)
- アレクサンドル・ベロフ (1978年没)