伝記
ノヴァーリスは、ドイツ初期ロマン主義を代表する詩人、小説家、思想家で、鉱山の技師でもあった。本名はゲオルク・フィリップ・フリードリヒ・フォン・ハルデンベルクといい、筆名はラテン語で新開墾地を意味する。1772年5月2日に、マンスフェルト伯領のオーバーヴィーダーシュテット(現在のザクセン=アンハルト州)で生まれた。家は北ドイツのニーダーザクセンに由来する貴族で、プロイセンの宰相ハルデンベルクは親戚にあたる。父ハインリヒ・ウルリヒ・エラスムスは、ヘルンフート同胞教会に属する厳格な敬虔主義者で、母は父の2人目の妻アウグスティーネ・ベルンハルディーネである。11人の子の2番目の息子で、父の厳しさは少なからず摩擦を生んだが、深い対立にはならなかった。少年時代まで生家で過ごし、家庭教師から教育を受けた。9歳の頃に赤痢にかかって胃の弛緩を患い、この病を機に詩的、知的な才能が花開いたと伝えられる。
1785年、父がザクセン選帝侯国の製塩所長に任命され、一家はヴァイセンフェルスに移った。アイスレーベンのルター・ギムナジウムで修辞学と西欧の古典文学を学び、1790年10月にイェーナ大学に入って法学を修めた。そこでシラーやラインホルトの講義に出て、シラーが病に倒れたときは学友とともに看病している。最初の詩『若者の嘆き』は雑誌に載った。1791年にライプツィヒ大学へ移って法学のほか哲学と数学を学び、1792年にフリードリヒ・シュレーゲルと知り合って生涯の友とした。1793年にヴィッテンベルク大学に移り、翌年に法学試験に合格した。同年秋に裁判所書記見習いとしてテンシュテットに赴き、近郊のグリューニンゲンで12歳の少女ゾフィー・フォン・キューンと出会い、翌春、13歳の誕生日に婚約した。ゾフィーはその後重病に倒れ、3度の手術を受けても回復せず世を去った。
この頃、ヴァイセンフェルス製塩所の試補となり、12月にフライベルクの鉱山学校に入って、鉱山学、地質学、鉱物学、化学、数学を学んだ。1799年にヴァイセンフェルスに戻り、製塩所の試補と管理局の一員となり、1800年にはテューリンゲン郡の地方長官に採用される予定となった。しかし以前から患っていた肺結核が悪化し、その職に就く前の1801年3月25日に没した。
創作では、ティークやシュレーゲル兄弟と親交を結び、雑誌『アテネウム』に評論を載せた。作品の特徴は、ゾフィーの死を中核にした神秘主義的な傾向と、無限なものへの志向、中世の共同体への志向にある。前者はゾフィーの墓前で霊感を受けて作られた『夜の賛歌』に、後者は中世の歌人を主人公にした未完の小説『青い花』や、評論『キリスト教世界あるいはヨーロッパ』に顕著に表れる。この評論は、詩的な歴史観が誤解を招くと周囲に案じられ、ゲーテの判断をあおいで発表を見合わせた。彼の職業は鉱山の分野で、作品にも鉱山の主題が繰り返し現れ、磁気やガルヴァーニ電気、錬金術といった自然研究の理論も好んで用いた。ほかに断片集『花粉』や未完の『ザイスの弟子たち』がある。ゾフィーとの関係を中心にした見方は、現在では初期の版や伝記の単純化によるものだとも考えられている。
同じ年に亡くなった人物
- アレクサンドラ・パヴロヴナ (1801年没)
- ドメニコ・チマローザ (1801年没)
- ラルフ・アバークロンビー (軍人) (1801年没)
- ルイーゼ・シャルロッテ・ツー・メクレンブルク (1801年没)
- ヨハン・ゴットリープ・ナウマン (1801年没)
同じ地域に関係する人物
- クリスティアン2世 (アンハルト=ベルンブルク侯) (1656年没)
- グスタフ・ランゲ (1889年没)
- アンナ・カタリーナ・フォン・ブランデンブルク (1612年没)
- ヒルデ・シュレーダー (1966年没)
- ハインリッヒ・シュワーベ (1875年没)