伝記
ウィリアム・クーパーは、18世紀イギリスの詩人で、ロマン主義の先駆者の一人である。国教会の讃美歌作者でもある。1731年にハートフォードシャーのバーカムステッドで、聖ペテロ教会の牧師ジョンの子として生まれた。母アンは、弟ジョンを産んだ1737年11月7日に亡くなり、六歳になる前に母を失った。7人の子のうち幼児期を過ぎて生きたのは、彼と弟だけだった。母を失った悲しみは深く、50年以上のち、母の肖像を受け取ったときの感慨を詩に書いている。幼い頃は母方の親族と親しく、伯父ロバートとその妻ハリオットから、バニヤンの『天路歴程』やゲイの『寓話』を与えられて、読書の愛を教えられた。
1742年4月にウェストミンスター校に入学したが、年長の子たちにいじめられた。校長ニコルに学び、ラテン語を熱心に学び、生涯その愛好者であった。『イリアス』と『オデュッセイア』を読み通して、ホメロスへの愛も育った。1748年に卒業し、同年ミドル・テンプルに入って法律を学び、ロンドンの法律事務所で書記として約2年の年季奉公を務めた。そのころ、伯父の家で従妹テオドーラに恋をして結婚を望んだが、近親の結婚は不適切だとして伯父に拒まれ、最初の重いうつ病にかかった。
1763年、貴族院の議事録係の職を紹介されたが、口頭試問を恐れて精神が崩れ、重いうつ状態となって、アヘンなどで3度自殺を図った。セント・オールバンズの精神病院に入り、そこで福音主義の教えに触れたが、病状はすぐに回復せず、弟の家に逗留したのち、ハンティンドンへ移った。そこで敬虔な福音主義の信徒だったアンウィン一家と出会い、その家に同居するようになった。まもなく、一家の父モーリーが落馬して亡くなる。ちょうどそのころ、伝道に来ていた牧師ジョン・ニュートンが、馬車の故障から偶然モーリーの家を訪ね、残された家族とクーパーを援助すると申し出た。一同はオウルニィに移り住み、クーパーとニュートンは意気投合して、讃美歌を作ることになった。
こうして『オウルニィの讃美歌集』が1779年に出版され、ニュートンが280、クーパーが68の歌を作った。クーパーの作に、『血に満ちた泉がある』や『神は不思議な道を行かれる』で始まる歌があり、後者の詩は1773年に作られた。1773年の夢のあと、自分は永遠の罰を受けると思い込んだが、やがて回復し、また宗教的な讃美歌を書いた。モーリーの未亡人メアリーは子らが独立すると、クーパーと婚約したが、うつ病が再発して婚約を解消し、再び自殺を図った。自責のあまり教会に行かず、部屋に引きこもった。1779年にニュートンがロンドンへ移り、1781年にはオースティンという女性に出会って創作の刺激を受けたが、メアリー・アンウィンを気遣って交際を突然やめた。のちに『ジョン・ギルピンの愉快な物語』(1782年)や『課題』(1785年)などの詩集を出し、奴隷制反対の詩『黒人の嘆き』(1788年)も書いた。ギリシア語のホメロスやラテン語のミルトンの英訳でも業績を残した。日常の暮らしやイギリスの田園の情景を詠んで、18世紀の自然詩の方向を変えたとされ、コールリッジは「最良の近代詩人」と呼び、ワーズワースは詩『ヤードリーの樫』を称えた。1800年4月25日に没し、ニュートンが弔辞を残した。
同じ年に亡くなった人物
- ヒュー・ブレア (1800年)
- Johann Euler (1800年)
- ジャン・エチエンヌ・ヴァシエ・シャンピオンヌ (1800年)
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- メアリー・ロビンソン (1800年没)
同じ地域に関係する人物
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- ジョン (イギリス王子) (1919年没)
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