伝記
サー・トーマス・ブラウンは、17世紀イングランドの著作家であり、医師である。1605年10月19日に生まれ、1682年の自身の誕生日と同じ10月19日に没した。医学、宗教、科学、秘教など多方面の知識に基づく著作で知られ、フランシス・ベーコンの自然史研究に影響を受けて、自然界に深い関心を寄せた。簡単な観察記録から装飾的で雄弁な作品まで、豊かで特異な散文を書き分けた。
ロンドンのチープサイドにある聖ミカエル教区に生まれた。父は同名の絹商人で、チェシャーのアプトンの出身、母アンはサセックスのルイスのポール・ガラウェイの娘である。兄が一人と姉が二人いたが、父は幼いうちに亡くなり、母はのちにサー・トーマス・ダットンと再婚して二人の娘をもうけた。ウィンチェスター・カレッジで学び、1623年にオックスフォード大学のブロードゲイツ・ホールに進んだ。1624年8月に同ホールがペンブルック・カレッジとなったとき、学生を代表する演説の役に選ばれている。1627年1月に卒業すると、パドヴァ大学とモンペリエ大学で医学を学び、ライデン大学で仕上げて、1633年に医学の学位を得た。数年を海外で過ごしたのち、ロンドンの王立内科医協会の会員となり、1637年にはノリッジに居を定め、没するまで同地で医師として働いた。1641年にはドロシー・ミルハムと結婚し、十人の子をもうけたが、そのうち六人は両親より先に世を去った。
最初の著作『医師の信仰』は、1642年に無許可の版が出回って本人を驚かせた。異端的な宗教的思索も含まれていたため、翌1643年に論争の的となる見解の一部を削った正式な版が出たが、騒ぎは収まらなかった。スコットランドの著述家アレクサンダー・ロスが攻撃し、同書は同じころ教皇庁の禁書目録にも載せられた。1646年に刊行した百科全書的な『プセウドドキシア・エピデミカ』は、俗説や誤った通念を方法的に、機知をもって検証した懐疑的な書物で、当時なお「新しい学問」と呼ばれたものを恐れない、ベーコン的な面が現れている。科学ジャーナリズムへの意識を促した点でも科学史上の意義が大きい。1658年に出した二つの論考のうち、『壺葬論』は、ノーフォークで見つかった四、五十の古代の埋葬用の壺に触発されたもので、死と各地の葬礼、名声のはかなさについての文学的な瞑想である。もう一つの『キュロスの園』は、様式も主題も対照的で、五点形の配列に美術と自然のうちにある原型の証拠を見ようとした。
ブラウンは天使や魔女の存在を信じていた。1662年のベリー・セント・エドマンズの魔女裁判に立ち会い、デンマークの似た裁判を引いたことが、被告の二人の女を有罪とした陪審の判断に影響した可能性がある。1671年にチャールズ2世が宮廷とともにノリッジを訪れたとき、廷臣ジョン・イーヴリンは「学識ある医師」の家と庭を、珍品のそろった楽園と記した。市長が叙爵の栄誉を辞退してブラウンを推し、ブラウンはナイトに叙された。
ブラウンは没後、ノリッジの聖ペテロ・マンクロフト教会の内陣に葬られた。1840年に作業員が誤って鉛の棺を開けたとき頭蓋骨が持ち出され、再び埋葬されたのは1922年7月4日であった。複雑な思考と凝った文体、聖書や古典、秘教からの引用のため、現代では読まれることが少なく誤解も多いが、その文体の影響は四世紀にわたって続いたとされる。
同じ年に亡くなった人物
- トーマス・ハーバート (1682年)
- ジャン・ピカール (1682年没)
- 顧炎武 (1682年没)
- 山崎闇斎 (1682年没)
- ヤーコプ・ファン・ロイスダール (1682年没)
同じ地域に関係する人物
- ノリッジのジュリアン (1413年没)
- アンナ・シュウエル (1878年没)
- チャールズ・タウンゼンド (第2代タウンゼンド子爵) (1738年没)
- ジョン・ハート (俳優) (2017年没)
- Ran Laurie (1998年没)