伝記
クロタール2世は、584年5月か6月に生まれ、629年10月18日に没したフランク王である。メロヴィング朝の3代目の統一王で、613年から629年まで全フランクを治めた。父はネウストリア王キルペリク1世、母はその愛人から妃となったフレデグンドである。父の子としては八男で末子、フレデグンドの子としては五男の末子にあたる。「若い王」と呼ばれることもある。
フランク王国は、クロヴィスの死後に分割され、6世紀を通じて分裂と再統一を繰り返した。561年に王国がクロタール1世の四人の息子に分けられると、キルペリク1世はソワソンを都に、兄弟のシギベルト1世はランスを、のちにメスを都とした。キルペリクの先妻ガルスウィンタが568年に殺害されると、キルペリクはフレデグンドを正式な王妃に立て、これがシギベルトの妃ブルンヒルドとの間に、613年まで続く長い抗争の始まりとなった。フレデグンドは、身分が低い出であったため、前妻の子を除くなどして地位を固めようとしたとされる。彼女自身の子は早くに世を去っており、584年春に生まれたクロタールは後継者となり得る子だった。
584年、キルペリク1世が暗殺されると、生後4か月の幼子が王位を継いだ。597年までは母フレデグンドが摂政を務め、伯父でブルグント王のグントラムが後見人となった。グントラムは592年に世を去り、クロタールは597年に母が亡くなると親政を始めた。領土は豊かではあったが、フランクの中では最も小さい部分の一つだった。父と同じく、他の王の死後にその土地を取り込んで領土を広げたとされる。599年、いとこにあたるアウストラシア王テウデベルト2世やブルグント王テウデリク2世と戦い、テウデリクとは度々戦火を交えた。613年にテウデリクが死去すると、ブルグントは息子シギベルト2世が継いだものの、実権はブルンヒルドが握っていた。
613年、クロタールはブルンヒルドとの戦いに勝って捕らえ、処刑して、母の代から続く抗争に終止符を打ち、フランク王国を統一してパリへ都を移した。614年10月18日にはパリ勅令を発し、各分王国の貴族の要求を受け入れて宮宰に権限を委ね、教会に裁判上の特権を与えた。この勅令は、官職の任命や王国の統治にかかわる内容で、現代の歴史家の解釈は分かれている。617年には、宮宰を終身の職とした。これは、王家の家政を預かる職が、やがて実質的な統治の長となり、751年に小ピピンが王位につくことにつながる重要な一歩とされる。
治世は当時としては長かったが、王権が貴族と教会に侵食されていく時期でもあった。623年、アウストラシア貴族の要請を受け入れ、若い息子ダゴベルト1世にこの地の統治を譲った。同時にピピン1世をアウストラシアの宮宰に任じたが、実権を握るピピンとメスの司教アルヌルフは、ダゴベルトを操って権力を保とうとしたとされる。メロヴィング朝の王としては珍しく一夫一妻を守ったが、早世が続き、生涯に三人の妃をもった。教会の味方であり、ブルンヒルドの処刑を除けば、凶暴な行いは目立たないという。629年に死去すると、ダゴベルト1世がアウストラシアに加えてネウストリアとブルグントを継承して王国は再び一つとなり、異母弟カリベルト2世はアキテーヌ王となった。
同じ年に亡くなった人物
- Eochaid Buide (629年)
- Thuwaybah (629年(推定))
- アル=アアシャー (629年)
- 'Abd Allah ibn Rawahah (629年没)
- Zayd ibn Haritha al-Kalbi (629年)
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