伝記
ティプー・スルターンは、1749年から1753年の間に生まれ、1799年5月4日に没した南インドのマイソール王国の軍総司令官、首席大臣であり、イスラーム政権マイソール・スルターン朝の支配者である。18世紀にイギリスがインドを侵略するなか、反英闘争に一生を費やし、マイソールの虎と畏怖された。生年月日には諸説あり、1749年、1750年、1753年などと伝わる。
マイソール王国のムスリム軍人ハイダル・アリーの子として、バンガロールの北のデーヴァナハッリで生まれた。1761年6月に父が首席大臣としてマイソール王国の実権を握り、ヒンドゥー王家のオデヤ朝の君主は有名無実となって、イスラーム政権が成立した。ベンガル周辺ではイギリスの勢力が確立し、インド全土の植民地化を図ってデカンや南インドにも手を伸ばしていた。ハイダル・アリーは領土を拡大し、積極的な近代化政策をとって、イギリスへの対抗姿勢を示した。ティプーは父の雇ったフランスの軍事顧問から大きな影響を受け、1766年に第一次マイソール戦争が始まると参加した。第二次マイソール戦争では父の片腕としてイギリス軍に数々の勝利を収め、その武勇でマイソールの虎の名をとどろかせた。
1782年12月6日、父が戦争中に死ぬと、ティプーはマイソール軍の総司令官となって戦争を続け、同月28日に父の後継者であることを宣言した。1783年1月2日にはマイソール王から首席大臣の地位を与えられ、名実ともに王国の支配者となった。第二次マイソール戦争はイギリスを相手に有利に戦い、1784年3月11日にマンガロール条約で終わらせた。軍の近代化、行政機構の中央集権化、土地や司法、幣制の改革を進め、養蚕や絹織物などの産業を育成した。官営の作業場を増やし、外国人の職人を招いて、国家が中心となって近代的な産業を起こそうとした。ジャーギールを与える慣行を廃し、国家による直接徴税を徹底して、徴税の中間介在者を排除しようとした。一方、地租は生産物の3分の1に及び、同時代のムガル帝国やマラーター同盟と変わらなかった。インド総督のジョン・ショアは、彼の支配地の農民はよく庇護され、労働は奨励されると記した。軍は当時のインドで最高水準にあり、統制がとれ、ヒンドゥーもムスリムも彼に忠実だったとされる。個人的には贅沢を嫌い、質素な生活をしていた。
1786年1月、シュリーランガパトナのモスクでパードシャー(皇帝)を称し、国号をフダーダードとすると宣した。金曜礼拝ではムガル皇帝の名ではなく自らの名を読ませ、ムガル帝国への名目上の忠誠を撤回した。1797年にはオデヤ朝を廃した。県知事にはムスリムを優先して任命し、飲酒や売買春を禁じ、各地の都市名をイスラーム風に改めた。ただしヒンドゥー教のシュリンゲーリ寺院の僧侶とは交流して財政援助をし、1791年に寺院の女神像がマラーターの騎兵に略奪された際には再建費用を出した。反ヒンドゥー的な政策の多くはイギリスによって記録されたもので、実際は他宗教に寛容だったのではないかともいわれる。海上交易を重視し、胡椒や白檀などは国家が独占し、イランやオマーン、トルコ、ビルマ、中国などと交易した。オスマン帝国やフランスにも使節団を送り、1788年にはパリでルイ16世に謁見した。第三次マイソール戦争を経て、1799年の第四次マイソール戦争では最後までイギリスに妥協せず、王都シュリーランガパトナの総攻撃で死んだ。死後、廃されたオデヤ朝が復活した。
同じ年に亡くなった人物
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- ヤン・インゲンホウス (1799年没)
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- カール・テオドール (バイエルン選帝侯) (1799年没)
- ヴィクトワール・ド・フランス (1799年没)
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